『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

テレビ時代における子どもの本のもつ意味

 テレビジョンは、一九五三年の本放送開始以来二〇年以上たって、完全にわたしたちの生活をおさえてしまった。子どもに対しても、このメディアは、娯楽と情報を与え、教育の手段ともなっている。そして、ほぼ同じ機能をもつ活字のように自発的に読みとらなくても、楽に受けとれる上に、継続的であるので影響力は圧倒的である。だから、読書を圧倒して、完全にその地位にとってかわるかと思われたが、じっさいは読書に対する関心を高める結果になっている。じじつ、明治以来の児童文学の歴史の中で、現在ほど子どもの読書にたいする関心が深まり、読書がすすめられている時代はない。
 たぶん、現在の子どもに対する読書運動は、テレビに対する素朴な疑問から発していると思われる。疑問の一つは、刺激的で卑俗な番組からくる悪影響である。この問題は、現在に至ってもほとんどかたづいていない。見た方がプラスである番組よりも、見なくてもよい番組が多くて、テレビが子どもに与えられるすぐれたものを、自らうちけしてしまっている。
 疑問の第二は、テレビが想像力を衰退させるのではないかというおそれである。映像と音声が同時に受けとめられるため、文字を通じて、自らイメージ化するという読書の一つの段階がなくなるのではないかという心配であった。しかし、想像力というものは、文字を通じて頭の中にあるイメージをつくりだすことではない。はるかに多様な心のはたらきである。子どもが、テレビの番組を素材として自らストーリーを創りだしたり、発展的に考えたりする姿を見ているだけでも、テレビが決して想像力を失わせることがないのはわかる。テレビに対する素朴な疑問は、一面もっともなものであったが、強力に読書をすすめる理由にはならなかった。そこで、さらにテレビに対して読書がもちうる特徴がほりさげられた。一つは言語の機能である。
 いうまでもなく、わたしたちは言語によって考える。テレビで受けとめたものは、言語によって整理されてはじめて正確な知識や経験となって定着する。読書活動は言語活動を促進し発達させる一つの方法である。だから、読書することはテレビを視聴して得られるものの価値を、より効果的に高める力をもっている。
 もう一つの読書の機能は、本がくりかえし読める、つまり反復して経験できる点である。これが本というもののもっとも大きな機能ではないかと思う。わたしたちは好みのときに好みの本の世界にひたることができる。もちろんテレビでも、好みのものを保存できるようになってきているが、それは現在のところ一般的ではないし、たとえ各家庭にそうした装置がそなえられることになっても、やはり本質的なちがいがある。映像は一定時間内で流れている。ある場面を静止させてもそれは一枚の写真でしかない。本の場合は、読むことによって、流れるものを固定させているといえよう。さらに、テレビの出現によって、子どもの本は、大きな意味を持つ一瞬を把握する特徴を強めている。絵本の絵が、物語をしながら同時に一枚一枚の絵のような要素を強めているのは、そのよい例である。物語でも、登場人物の行動を追うだけでなく、内面の動きから筋を組立てる作品が多くなっている。また、ファンタジーの領域がひろがったことも、本の機能の深まりを示すといってよい。
 最近、歯切れのよい文体でスピーディに筋をはこぶ子どもの本がしばしば出版される。テレビ時代の子どもの感覚を考慮してということなのだろうが、その多くは、物語の筋を追うだけのもので、いわばテレビに負けてしまっている。これはつまらないことである。
 テレビには、テレビによってもっとも効果を発揮できるものがたくさんある。と同時に、テレビの出現によって、子どもの文学は、絵本から小説に至るまで、本来の特徴をさらに深めているといえる。本を読まなくても子どもは育つし、人間の成長にとって読書はほんの一部分をになうものでしかない。それでも、多くのすぐれた人たちによる、新時代に応じた努力の成果を享受しないことは、かなり大きなマイナスだと思う。そこで、子どもの文学の役割を、今までのべてきたことの復習としてまとめてみよう。

児童文学の役割

 テレビが生活を大きく変えてしまったとき、そして子どもの生活にも甚大な影響を与えたときにも、まず問題になったのが想像力である。文学、特に児童文学は、空想を中心に想像力を豊かにする。
 わたしたちは、よく、鳥のように空をとびたい願望が空とぶじゅうたんになり、空とぶ妖精を生み、やがて飛行機につながったという話をきかされ、空想の価値の説明にこの論法が使われてきた。長い目で見て、これはまちがいではない。しかし、空想は、便利なものを生みだす前に、やはり、個々人が現実をどう解釈し、それをどう変えたいかという意志の表現であると思う。空想の物語は、言葉で書かれる。イギリスのファンタジーのように、できるだけあいまいさを残さないようにくわしくえがかれても、なお、頭の中で情景を思いえがく作業は読者にゆだねられる。つまり、あいまいさが残っている。そのあいまいさを明確化するのが読者であるわけだが、それは言葉を頭の中で絵に変えることだけではない。作者の現実に対する考えをたどって読者が確認することである。子どもの文学で空想が重視されるのも、理由はそこにあると思う。作者が一つの別世界を生みだすことは創造である。創造されたものは、読者が参加してはじめて完結する。だから、空想の物語を読むことは、創造することでもあるといえる。
 想像力はただ単に空想ばかりではない。体験しなくても理解できる心のはたらきもまた想像力である。同情や共感といったものは、相手の立場にたって考えられ、感じられる心のはたらきがなくては生まれない。多くの人物が登場し、さまざまな状況で考え、感じ、行動する物語を読めば読むほど、体験によらずに理解する能力は開発されていく。これはなにも読書にかぎらず、もちろんテレビにもそなわる機能である。ただ原則と現実は違う。現在、テレビの多くの番組は、さまざまな制約の中できびしい現実の姿をえがかず、類型的なストーリーと類型的な人物と類型的な行動やせりふに終始している。また、不特定多数を目指してつくられるため、個人から個人に向かってつくられる文学ほどに個性的でない場合が多い。登場人物を通じて現実を考えるには、子どもに関するかぎり文学がすぐれていると思う。ことに、日本の児童文学は、現在に対してひじょうに敏感な体質をもっている。すぐれて現実的な作品に触れることは、子どもに大きな好影響を与えるにちがいない。
 ユーモアの必要もよくいわれることだが、ユーモアの感覚もやはり想像力の所産である。ユーモアは、自己を客観的にながめられる態度から生まれてくる。そして、その態度は、さまざまな人間のタイプを知り、おこりうるさまざまな出来事を知ることから獲得できる。だから、とくべつに笑いのあるもの、ユーモア小説と称されるものを読む必要はない。人物がくっきりとえがかれ、環境と必然的にからまる行動がくりひろげられる物語は、人間の理解をたすけ、結局ユーモアをそだててくれる。
 また、自他の比較も、子どもの文学が果たすことのできる大きな機能だといえる。
 イギリスの作家アリソン・アトリーの『チム・ラビットのぼうけん』(一九三七)は、小うさぎが、風、犬などはじめて見たりきいたりしたものに驚いて母うさぎのところにかけこんでくるところからはじまっている。自分をとりまく外界の認識から、失敗や迷いを重ねて成長する幼児が把握されているのである。このアトリーの影響があきらかに見られる神沢利子の『くまの子ウーフ』(一九六九)の中でも、特に子どもたちに好かれる「ウーフはおしっこでできているか」は、自分が何でできているかという幼い疑問を通じて、自分は誰かを考えさせる。こうした年少の子どもたちの開けゆく意識は、やがて古田足日の『宿題ひきうけ株式会社』(一九六六)のように、プロ野球に入団するスター選手はなぜ高額で、ふつうのサラリーマンは給料が安いか、といった現実的で社会構造の根本にふれる疑問につながっていく。もし、ふさわしい本が選ばれるなら、児童文学は、子どもの成長の各段階で生ずる、育ちゆく上での疑問にある程度こたえるか、あるいは自らこたえを見出すきっかけを与えられる。
 自他の比較は、さらに日本と諸外国にひろがる。児童文学の進歩発達あるいは変化が、すくなくとも日本を含む西ヨーロッパ圏でほぼ同じであることは、すでにおわかりいただけたと思う。また、子どもという発達の過程にある人間を主にした文学であるため、大人よりも共通するところが多いためか、国際化が急速に進んでいる。殊に日本はヨーロッパものの翻訳が多いので、読者はいながらにして外国のもっとも新しい文学に接することができる。外国の文学との接触は、まず第一に人種、国境をこえた人間の共通した点への理解を深め、相互理解と平和のための心を養ってくれる。同時に、外国の文学は、衣服、食物、風俗習慣、思考、伝統、あらゆる面で、各国の独自性を示している。この異質なものとの出会いは、当然自分の国の独自性を気づかせる。それが深まれば民族の意識を育てていく。
 外国の窓としての翻訳は、その意味でひじょうに大切な仕事である。もちろん問題はある。アーサー・ランサムの『女海賊の島』(一九四一)に、ケンブリッジ出身の女海賊がイギリスの子どもたちに向かってラテン語のトロヤ戦争のくだりを訳すところがある。
  「その日、クラス全員の勉強中、ミス・リーは気分転換に、訳のしかたを生徒たちに教え、炎上するトロヤでのたたかいの場面を、たとえば、プリアモスの宮殿を役所、ヘクトルをギリシャの頭目といったように、中国風を加味して訳した。」
 これは拙訳であるが、訳しながらわたしは、翻訳の限界のようなものが象徴的にここにあらわれているのではないかと考えた。たとえどれほど外国語に熟達していても、またどれほど長く外国にいても、その国の人間でないかぎり理解できないことがある。そして訳す場合は、どうしても自分の国にひきつけて訳してしまう。当然ヘクトルはギリシャの頭目(タイクン)にならざるをえない。
 平易な日本語に訳さなくてはならないことはもちろん必要だが、あまりに日本語化してしまっては、もとのなにかを失う。また、事物を日本にあるもので代用させると似て非なるものになる。たとえば、キリスト教の教会の内部の訳語など、ほとんどが仏教の寺の用語で代用しているが、どこか奇妙な感じはいなめない。同化と異質なものの保存の間で、あらゆる翻訳はただよわなくてはならない。子どもたちには、できるだけ異質なものが異質と感じられる訳を与えたいものである。
 児童文学のすぐれた作品には、常に現実が息づいていることも、重要な点である。ある時代の子どもの生活を写実的に扱った作品は、時がうつり人が変わるとともに、うっすらとほこりをかぶらざるをえない。私の好きな佳作に鈴木喜代春の『北風の子』(一九六二)という作品がある。十年以上前の作品で、内容はさらに前のものである。作者は
  「この物語から、十年もたった今では――東北地方の片すみにある健三たちの部落にも、耕耘機のうなりがひびきわたり、スクーターがさっそうと走っていたりすることでしょう。また有線電話が通じたり、テレビのアンテナが立っているようにもなっていることでしょう。」
 とまえがきでいっている。これは一九五〇年代つまり敗戦数年後の貧しい農村がえがかれている。学級費がはらえない子ども、自衛隊にもはいれないでぐれていく若者、戦争中東京近くの工場へつれていかれ、胸をやられて帰ってきて、ろくに治療も受けられずに死んでいく娘などが、底深い怒りにみちてえがかれている。この作品が書かれてからさらに十数年、鈴木が書いた以上に農村ははげしく変わってしまった。しかし、この作品を読みかえすごとに、わたしは昭和二五、六年頃が生き生きとよみがえる。学級費がはらえなくておどおどする健三と、たまご一つたべずに死んでしまう姉の春子が、なにかをつよく訴え、健三ひとりに見送られて東京へ夜にげ同然にして出ていく勝二母子が、いっぱいの悲しみを背負って語りかけてくる。地味な作品ながら、ここには一時期が生き生きととじこめられ、本をひらくたびに生きて、今につながる問題を投げかけてくれる。
 『北風の子』にくらべて、イーヴ・ガーネットの『ふくろ小路一番地』は、おなじ貧乏ながらたしかになまぬるい。しかし、今読んでもどこか感動的であるのは、この作品が若い画学生の誠実な怒りと新鮮な感動をモチーフとして、当時のイギリス児童文学にあっては、せいいっぱいのプロテストの文学だったからにちがいない。
 ガーネットにくらべても、さらにブルジョワ的な同時代作家アーサー・ランサムは、
  「『ツバメ号とアマゾン号』を読みだした子どもたちは十二冊の部厚い本を楽しく読破して、少しも長いと感じないだろうことは、じっさいわたしが見ているので、まちがいない。しかし、このことがひじょうにのろのろした語り口の弁解にはあまりならないのではないかと思う。そして、全体として、内面への洞察はまあほとんどなく、読者が、人生とは今まで思っていた以上にゆたかでふしぎであると、ふいに気づかされる瞬間も、ほとんどえがかれていない。」
 と、ジョン・ロウ・タウンゼンドによって批判されている。
 ランサムが、大不況期の子どもの現実をえがかなかったことは事実であるし、まったくイギリス中心で他の国々の子どもなど、いわば眼中になかったであろうことも推察できる。それでも、彼の作品の中には、暮らしを気にすることなくすごせる子どもたちの夏休みの遊びの楽しさがいつも息づいている。そして、この作品は作者にとっては生きていることの最高の喜びの表現であり、また、それを時代が要求していた。一時期が生みだせる、もっともすばらしいものの表現である。
  同じ一九三〇年代の日本の子どもの夏休みをえがいた長崎源之助の『ヒョコタンの山羊』(一九六七)では、子どもたちは生活苦からのがれられていない。しかし、貧しい暮らしが子どもの立場から、子どもの目と心とでとらえられ、大人のひとりよがりのプロパガンダ小説にない強さがある。この子どもの把握が可能になったのは、戦後二〇年以上の児童文学の歩みが背景にあるからであり、この時期だから生まれたといえる。
  ウィリアム・メインの『砂』は、決して明るい作品ではない。スチーブンソンの『宝島』の主人公のように英雄的でもなければ、早船ちよが終戦後の川口市の子どもたちをえがいた『キューポラのある街』の主人公ジュンやタカユキのように、苦しみながら一歩一歩明るい未来をめざす姿もえがかれてはいない。だが、海岸で黙々と砂にうずもれたトロッコ線路を掘る子どもたちには、生きることへの不屈の勇気が感じられる。
  あらゆる時代を通じて、すぐれた作品にはいつも人間の営みについての真実が含まれていて、つねに生き生きとよみがえってくる。現在つくられたものにだけ、現実があるのではなく、人間の真実にふれている点で、傑作はいつも現実的なのである。
 現実的であるとは、今日に通じるさまざまな要素を含むことである。大人が子どもを主な読者として最高の人生への憧憬を語る場合、人類の過去の知恵がのこした、人生についてのさまざまな考えが当然土台になっている。子どももまた大人同様によい生き方を模索している。社会の一員としてよい人生を送るために必要な基本的なもの――児童文学は、それを大人から子どもへ手渡しすることができる。もちろんそれは、大人の押しつけであってはならないし、そのときどきのおとなの必要から出たものであってはならない。「よりよく生きるには」を前提に、長年月の人間の試行錯誤がつかんだ知恵の所産でなくてはならない。
 児童文学は、絵と言語を通して、美を鑑賞する力を養い、文学や他の芸術を享受する素養をつけさせる。絵本は一種の複合芸術で、絵と言語が物語世界をつくっているから、両者をばらばらにして論じることはまちがいであるが、子どもにとって絵本の絵は、生まれてはじめて出会う美術といえる。すでにのべたように、最近の絵本の絵にはタブロー的なものすら出ているほど、新しい絵の流れに敏感であり、子どもたちに新鮮な美をおくっている。そして、絵本の場合、たいてい声を出して読んでやることが多いから、言語も、意味と音声の両面が考慮されている。すぐれた絵本を読んでやることは、大人と子どものコミュニケーションであるばかりでなく、絵画の美に接し、さらにえらばれた言葉の音の快さをあじわい、言葉の使用法をひろげる機能を果たす。子どもが大きくなるにしたがって絵の要素は減少していき、文章がふえ、ストーリーも構成も複雑になっていく。しかし、よい作品は年令にふさわしい配慮がなされていて理解を助けるから、物語を楽しみ、テーマを正確につかむことができる。はやくから本に親しんだ子どもほど、一般文学や他の芸術を十分に享受できるようになる。
 子どもの生活にとって読書はほんの一部分である。読書しなくても聡明な人間に育つ子どももいるし、書物の機能が他のもので補えないわけでもない。しかし、彼らにとって生活のほんの一部分である読書の中味には、十分に味わえばプラスになるものがたくさんある。大人はできるだけ、本を読む環境をつくってやらなくてはならないと思う。
 現在、子どものまわりには、あふれるばかりに本がある。だから、人によっては、書きすぎや、出版過剰を口にする。そして、まず大人が困るのは、どれがよい本かという選び方の問題であろう。この問題は、なかなかむずかしい。えらぶ大人だけにかぎっても、ある人は主題を大切に考え、ある人は物語の出来ばえを第一条件とする。主題、構成、文体、人物像などを逐一点検する場合もある。結局は子どもと時がきめていくのだが、子どもと時のテストにのこる第一条件を、わたしは、作者の本音が出ているもの、全身全霊をうちこんで創作しているものの二つだと考えている。
 文学として当然きわまるこの二つは、あんがい子どもの文学ではみたされていない。大人が子どもに語るとき、なかなか本音は出しにくい。自己を正直に語る前に、これは子どもにふさわしくないとか、これこれはぜひ教えておかねばならぬとかいった大人的配慮が先に立って、子どもの前でポーズをつくる。子どもはそのポーズを必ず見破るものである。大人たちにとやかくいわれながら、バリの『ピーター・パンとウェンディ』が今まで命ながらえているのは、彼が子ども時代への憧憬とマザー・コンプレックスを正直にぶちまけて創作したからだと思う。『ハックルベリ・フィンの冒険』が常に新しいのも、マーク・トウェインがアメリカ人のさまざまな欠点を心から呪詛し、ハックにあこがれたことが大きな理由になっているにちがいない。傑作といわれて残っている作品には、必ず大人としての作者の本音をきくことができる。
 小川未明という作家は、純な童心を基調にして創作すれば、子どもは必ずついてきてくれるという主旨のことを書いていて、考えようによっては子どもに対してまことに傲慢な作家だったともいえる。しかし、彼の作品『赤いろうそくと人魚』『牛女』その他を読むと、やはり心を動かす迫力がある。子どもに向かって情熱をもやし真剣に創作しているからである。一八世紀イギリスで『サンドフォードとマートン』というお説教小説をかいたトーマス・デイという人がいた。この作品は今から見ると長たらしく、お説教だらけで、教訓主義児童文学の悪例の一つとされている。しかし、読んでいて何か迫ってくるものがあるのは、心から子どもにためを思ってお説教している、その奇妙な情熱が伝わってくるからにちがいない。
 わたしは、以上二つの条件がととのっている作品だけが、子どもの前に並べられると考えている。そうした作品の群れの中から、子どもたちが、ほんとうに自分たちのものをえらぶのである。
テキストファイル化日巻尚子