『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

日本のファンタジーの現状と可能性

 イギリスとアメリカのファンタジーに見られる質的変化は、日本のファンタジーにも当然はっきりとあらわれている。日本におけるイギリス風ファンタジーの誕生、つまり、日常と空想とがともに写実的にえがかれ、人物・構成ともに小説的手法で創作された空想的作品が生まれたのは、一九五九年の『だれも知らない小さな国』(佐藤暁)及び『木かげの家の小人たち』(いぬいとみこ)の二作からである。そして、その誕生は、いぬいがメアリ・ノートンの『床下の小人たち』(一九五六)の強い影響を受けていることでもわかるように、一般にイギリスのファンタジーの導入下に生まれたと考えられている。それは、まちがいではないが、新しい種類のものが紹介されればすぐにそれと似たものが生まれるわけのものではない。生まれる必然性がなくてはならない。戦後に作家となった人たちにとって、どことも知れぬ魔法の国で、昔話的な性質しかもたない主人公が活躍し、その結果濃縮された抽象度の高いテーマを伝達するメルヘンは、複雑で激動する戦後社会の中の、自己の課題を表現するには不
向きであった。そこで、より現実性をもち伸長性のある現代ファンタジーの方法が必要となったのである。そして、佐藤は、少年時代に見た小人の敗戦後における探索と再発見を、いぬいは、あずかったイギリスの小人を戦争中に守りぬく努力を、物語として創造した。ともに、いわゆるエヴリディ・マジックの世界である。

 やっかいなことに、日本で本格的なエヴリディ・マジックが生まれたとき、イギリスでは、すでにこの分野が質的転換をはじめていた。くりかえしになるが、人間の自身があらゆる不思議を下位に置いた楽天性がくずれ、あらたな人間の捜索として、不思議を解き放す前夜あたりで、日本の児童文学はエヴリディ・マジックに出会っている。だから、この方法を、維持し発展させることはむずかしかった。

 いぬいとみこは、『木かげの家の小人たち』の続編を、やはり表面的にはエヴリディ・マジックの方法を用いて『くらやみの谷の小人たち』(一九七二)にまとめた。この話にも、前作の主役やわき役だった人間たちは当然あらわれる。戦時中自由主義者の故に牢獄につながれていた森山達夫は山口県の大学につとめ、透子夫人は同地で保母をしている。長野県野尻湖に小人たちをつれて疎開していた小学生ゆりは結婚し、さゆりとみちの母親になっている。軍国少年だったゆりの兄、信は、純という息子をもつ父親である。そして、彼らのうち何人かは、小人たちのいる野尻湖にあらわれる。しかし、彼らは、もはや前作のような主役ではなく、敗戦後の日本と世界の状勢の説明役にしりぞいている。そして、主要な部分を占めるのが、日本生まれのイギリスの小人ふたりと、野尻湖に土着のアマネジャキと、彼の友人である花や草の精たちの、生命の泉を復活させる戦いである。かんたんにいえば、空想が現実をしのいでしまっている。

 この変化を、この作品に限って考えれば、西欧的発想から出発したいぬいのファンタジーが、日本的想像力の所産を掘りおこしつつ現在を把握し、未来への展望を切りひらこうとする中で、質的変化をとげたといえるだろう。

 一般的にいって、人間が超自然なものを支配したり、それと対等な関係でつきあうエヴリディ・マジックの方法をつかって、日本の戦後をえがこうとすれば、たぶんそれは、写実的な作品のもつ身近な迫真性もなく、ファンタジーだけがもつ高度な現実性と未来への展望もない、表面的な諷刺や批判になると思う。二〇世紀前半がそだてたエヴリディ・マジックには、戦争、公害、差別といった厳しい問題が本質的にそぐわないところがある。

 いぬいの作品の質的変貌は、彼女が追究しようとしたテーマから必然的に生まれた。くらやみの谷の生と死の戦いは、たしかに空想の領域だけがなしえるすぐれて高度な今日性を感じさせる。だが、この作品は、どこかに未消化なところがある。その原因は既述したイギリス、アメリカの作品にくらべれば、比較的たやすく見出すことができると思う。

 くらやみの谷の、生の勢力と死の勢力の戦いは、地方神話を土台にしている。その神話によると、太古、宇宙は天と地と根の国から成っていた。そして、地上の美しい湖、野尻湖の主の座をめぐって地震(ない)の滝の大ガニと斑尾(まだらお)山の下に住む大ガマが戦い、大ガニが勝った。ところが負けた大ガマが根の国で湧くいのちの水をうずめてしまったために、大ガニは主になれず、根の国も死の水や腹黒い精たちであふれるくらやみの谷となってしまった。

 この話がどこまで伝承で、どこからが創作なのかつまびらかでないが、とにかく作者が伝承の想像力に依存していることはたしかであると思う。問題は、この伝承の大ガニや大ガマやいのちの水や死の水が、ガーナーの作品にあらわれる角のある死の狩人や、アリグザンダーの物語にあらわれる黒い魔法の釜のような凝縮された高度の象徴性とリアリティを感じさせない点である。それは、完成せずに終わった伝承に一半の責任があり、素材としての伝承を新しく凝縮して、現実の現象の本質を象徴するものとできなかった作者に一半の責任がある。いぬいは、現実把握にふさわしい本格的なファンタジー創造の方法をさぐりあてながら、本格的なファンタジーでなければ表現しえないものをとりにがしたといえる。

 これは、いぬいよりもさらに神話・伝説的傾向の強い神沢利子の『銀のほのおの国』(一九七二)及び天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』(一九七三)にもそのままあてはまる問題である。

 『銀のほのおの国』は、筋のたどりやすさとテーマの把握しやすさの点で、七二年に出たファンタジー中、もっともまとまりのよいものといえる。物語は春休みに、たかしという少年が壁のかざりのとなかいの首に投げなわをかけ、たわむれにその呪いを解くところからはじまる。たかしが呪文をとなえたとたん、死んでいたとなかいが突然走りだし、たかしと妹のゆうこは、ひきずられて壁穴に入り、気づくと一面の枯れ野に出ている。やがて兄と妹は、その未知の国の村の中で茶袋と自称するうさぎに出会う。茶袋は、このふしぎな国が大昔トナカイ王銀のほのおに治められた平和な国であったのだが、あるときトナカイはやてが青イヌと巨人の裏切りにあって倒れて以来、この国は青イヌの支配するところになってしまったと語る。しかし、はやてがよみがえるとき、山にのまれたトナカイたちもまたよみがえり、ふたたびこの国に平和がもどるという伝説を、茶袋はふたりに伝える。たかしとゆうこは、よみがえったトナカイはやてを追って進み、トナカイが青イヌに勝利する戦いに立ち会うことになる。

 たかしとゆうこは、はやてのよみがえりのいい伝えに"来たるべき二本足の子"と予言された主要人物で、この国の将来を示す岩壁の言葉を読むことになっている。このふたりを、前にのべた神話的英雄の特質にてらして考えると、たかしがナイフをもって青イヌと戦って勝利すること以外、あるいは二人の銀のほのおの国への旅以外、ほとんどあてはまるところがない。はやても、また、その出現と死、英雄的な戦い以外に英雄的性質をそなえていない。だから、真の意味でヒーローやヒロインのいない作品なのである。また、舞台である銀のほのおの国も、やや実在感にとぼしい。荒野の果てには天の槍がそびえ、天の槍の峯の岩壁には予言の文字が彫られている。天上のトナカイ星座の一の星と天の槍の頂きと岩壁が正三角形をえがくとき、その文字があらわれるという、神話的なエピソードもある。この国の歴史も一応は語られている。その点たしかに、想像による一世界あるいは一宇宙は創造されているのだが、場所、登場人物、もの、それぞれは、凝縮された意味の重みにとぼしい。

 現代の子どもを現代の町で活動させている『光車よ、まわれ!』も、骨格にはやはり神話・伝説的要素が存在している。かんたんにいえば、この物語は水魔神とその手下がつくる裏の国つまり死の国と、わたしたちの住む生の国の争闘であり、水の氾濫に象徴される死に対して、水をおさえこむ光車を探索する生の側の活動がストーリーをつくっている。光車探索の一員である一郎の言葉どおり、生の側の子どもたちを「聖杯をさがすアーサー王の騎士」と見立てれば、アーサー王は、さしずめ戸ノ本龍子になる。龍子は操業停止中の祖父の工場を本拠に同志の級友たちを指揮して三つの光車を発見し、最後に工場に迫った敵と戦って、まわる光車の輝きの中で舟にのり、ウラガリ国へいってしまう。彼女も、しかし、怪物との戦い、その死以外に英雄の条件にあてはまらない。一郎やルミは死の国に旅するが、戦いや死はない。要するに戸ノ本龍子たちの光車探索グループには、アーサー王も、彼の部下の英雄、湖のラーンスロットもサー・ガウェインもいないのである。もちろん、ヤン・デ・フ
リースの条件にただ一つあてはまっていても、英雄的にえがくことはできるが、この作品の登場人物たちは残念ながら印象深く脳裡にきざみこまれるようにえがかれていない。そして舞台も環状九号線が走り、信用組合や国立図書館があらわれる大都会であるから、神話的雰囲気にはほど遠い。死の国の主、水魔神も、白いガウンを着た小男で、細い針金のはちまきのようなものをかんむりにしている姿からは、彼に出会ったときの一郎が笑ったように、一種のこっけい味はあっても、死や暗黒を実感させる高い象徴性にはとぼしい。

 『銀のほのおの国』も『光車よ、まわれ!』も、現代の必然の流れに沿って生まれ、アラン・ガーナーやロイド・アリグザンダーとほぼ同じ別世界を創造しながら、質的に失敗してしまっている。そして、その理由は二つとも意味の凝縮度や、登場人物の形象化を原因とする物語の散漫化にある。

 ガーナーやアリグザンダーは神話・伝説の素材をそのまま利用しつつ、それに独創的な解釈を加えて物語をつくっている。彼らは、古代からの多くの人びとの想像力の結晶をそのまま利用できているのである。一方、神沢利子や天沢退二郎は、発想において神話・伝説的世界を念頭においたとしても、特定の神話や伝説から直接何かをかりることはしないで、独創的な神話世界をつくりあげている。借りものなしの独創がテーマ、人物、事件、事物についての凝縮度不足になっているとしたら、「現在、独創性とは、既存のテーマに各人が色づけすることを意味することと思われる」というガーナーの言葉(『ゴムラスの月』あとがき)を裏づけてしまうことになる。この言葉の重みはよく理解できるが、これを肯定することは、作者や読者の意気を大いに阻喪させる。

 「青イヌは敗れ、われらは栄えるであろう。多くのものは死んだ。だが、敵味方の肉はそれを食うものを肥やし、地を肥やすであろう。多くの虫を肥やし、鳥の餌をふやし、鳥を肥やすであろう。湖に沈みしものは、植物を肥やし、魚の餌をふやし、魚と水に棲むもろもろの生あるものを肥やすであろう。死はほろびに通ずるよりも、さらにゆたかな生につながるのだ」(『銀のほのおの国』福音館書店、三四八〜九頁)

 魂の循環ではなく、生命の循環、つまり輪廻とはちがう生態系の肯定を大胆にうちだした神沢のテーマや、

「水魔神は龍子のおじいさんの、悪の分身だったのね。・・・・・・龍子のおじいさん、つまり中谷のおじいさんは、自分の分身とたたかって、龍子のおかげで勝ったけれど、自分もまたいくどめかの最後をむかえたのよ。・・・・・・」(『光車よ、まわれ!』筑摩書房、二八三頁)
という天沢の人間観は、それ自体がまったく新しいとはいえないにしても、児童文学のファンタジーではほとんど見られなかったものである。また、

「水たまりのひとつひとつに空がうつって、そのひとつひとつの空を、雲がぐんぐんかけぬけていく。いっしょうけんめい、その空や雲を見ながら歩いているうちに、どっちが上でどっちが下なのか、どの空が本ものの空なのかわからなくなってきた。
 そしてやがて、目の下、足の下をどんどんうごいていく水たまりの中に、ひょいひょいと、なにか見なれないものが顔をだすのに気がついた。
 とくに大きな水たまりのヘリを通るとき、一郎がすこし歩みをゆるめて、そこにうつったさかさまの世界を注意ぶかくのぞいてみると、水面にひょいと、まんまるな顔がひとつ、一郎の方をのぞきこんだかと思うと、すぐパッとひっこんだ」(同前書、十二〜三頁)

 といった箇所に見られる、豊かな内容をもつ鮮烈なイメージもまた、今までほとんど児童文学では見られなかった要素といえる。

 こうしたものが、神話や伝説を土台にしなければ効果的に表現され、機能しないとしたら、深い哲学性や神秘性をそなえた神話をもたないとされる日本人は、すぐれたファンタジーを生みだせないことになる。もちろん、日本の伝承文学その他がいちがいに哲学性に欠けるとはいえないから、そこから素材を発見し個性的なものを加えたり構成しなおしたりする方法は考えられる。また、外国のものを素材として利用することもできる。だが、伝承に依拠しない方法がどこかにあるはずである。

テキストファイル化長谷野沙織