『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)


開放された魔法――アラン・ガーナーの魔法の意味

 アラン・ガーナーは、神話・伝説を素材にえらんで児童文学の捜索をはじめた理由を、なによりもまず、象徴的な意味をもつ登場人物たちが善悪や精子の対立抗争という一大テーマにむかってドラマチックに行動する緊張感にひかれたからだとのべ、つぎに、その劇的な緊迫感を通じて自己を表現する可能性を見たからだといっている。
 彼はイギリスに危機がせまったとき、長い眠りからさめるという眠れる騎士の伝説を土台に、この眠りを守る宝石の行方を追って、善の魔法使いキャデリンと現代の少年コリン、少女スーザンが、暗黒の王ナストロンドの勢力と戦う『ブリジンガメンの魔法の宝石』を一九六〇年に発表した。
 ガーナーは、現代の子どもが、神話的なハイ・マジックとブラック・マジックの争いに巻き込まれる導入部に工夫をこらし、それによって現在と古代的想像力の世界を融合させようとした。これは一応成功し、読者を主人公たちに同化させることに役立っている。この主人公たちが活躍する別世界には、案国王ナストロンドの手先である黒衣の不気味な男、ふつうの女に姿をかえた魔女、山の洞穴内に住む小鬼たちといった悪の側と、眠れる騎士たちを守護する魔法使い、豪勇の小人たち、たて琴をもつようせいなどの善の側とが存在する。
 ガーナーは、その舞台として、実在するイギリスの一地方をほとんどそのままつかった。そして眠れる騎士の伝説は、地方伝説であるために一種の神秘的な迫真性をもっている。また、山の魔もの、小人、妖精等は本来北欧神話の登場人物なので、性格・行動に荒々しさと神秘さがあり、彼らの登場は、物語に独持の雰囲気をかもしだす。別世界を生き生きと創造しようとする工夫はなかなか上手だといえる。話の筋もおもしろい。人間の主人公コリンとスーザンは、悪の勢力に一度奪われた宝石をとりもどす。そして魔ものたちに追われて山中の危険きわまりないトンネルを必死に逃げる。一歩あやまれば、暗黒の深淵が待ち、ところによっては子どもの体がつかえて抜け出せないほど、そのトンネルはせまい。このトンネルの逃避行の箇所だけでも、スリル満点である。全体に、新鮮で迫真力のあるファンタジーといえよう。
 欠点もある。この物語の、人間に支配されない、奔放で強大で圧倒的な神話的魔法は、確かに興味あるスリリングな物語をつくっているが、ガーナーのテーマの本質にかかわっていない。くりかえすが、彼はこの処女作で強大な悪と必死に戦う善をえがいた。だが、善悪二元論は多くの神話や宗教の根幹をなす考えであって、それにはなんの独創もないし、その二つの抗争に現れる超自然なものにも、特に現代的・個性的な解釈は見られない。つまり、この作品は新鮮なファンタジーを生む可能性を感じさせるけれども、先人たちの創造を超えるガーナー独自の哲学が形づくられるまでには至っていなかったのである。
 第二作『ゴムラスの月』(一九六三)で、彼自身がようやくあらわれてくる。言葉をかえれば、二十世紀になって日常生活の中にとじこめられた空想を、ガーナーがなぜふたたび開放し復原したかが、徐々に明らかになってゆくのである。
 『ゴムラスの月』は、前作と同じ登場人物が主役を演じ、同じ場所が舞台になっている。前作はスーザンとコリンのはたらきで、眠る騎士たちの安全が守られ、暗黒の力は敗退したところで終わった。『ゴムラスの月』は、北方でふたたび巨大な悪が動き出すところから話がはじまる。妖精王アートレンドーは、この悪を滅ぼすためにあらゆる魔力を集めようと考え、スーザンが(前作の冒険中に)魔法の世界の湖の女王アンハラドから贈られたうでわ〈フォーラのしるし〉をかりたいと申し出る。スーザンは喜んで貸すのだが、そのためうでわの魔力に守ってもらえなくなる。すると、形のない悪の魔ものブロラハンがスーザンの体を奪い、スーザンの魂ははるかな別世界カー・リガーへ行ってしまう。そこで、コリンはプロラハンをスーザンの体内から追い出し、カー・リガーから魂をよびもどすため、満月の夜にだけ姿をあらわす古代のまっすぐな道をのぼって、丘の上にさく花モサンをつみ、魂のよびもどしに成功する。
 だが、暗黒の力は、このふたりや、ふたりの周囲の善の勢力に攻撃をしかけてくる。スーザンは自分の魂をよびもどしたモサンをつみ、魂のよびもどしに成功する。
 だが、暗黒のちからは、このふたりや、ふたりの周囲の善の勢力に攻撃をしかけてくる。スーザンは自分の魂をよびもどしたモサンの花と、まっすぐな古代の道の話をきき、その道があらわれた丘へのぼってたき火をしたため、ひたいに鹿の角のはえた死の狩人をよびおこしてしまう。
 スーザンがこの異常な事件を魔法使いキャデリンに知らせにいっている間に、こんどはコリンがさらわれる。さらったのは、前作で敗北した魔女モリガンである。戦いは結局モリガンのうでわとスーザンのうでわの魔力の戦いとなる。モリガンのうでわは欠けた月の、スーザンのうでわは新月の魔法である。新月の魔法はいったん破れるが、スーザンは、やはりアンハラドからの贈りものである角笛を吹いて、ついにモリガンとその一味にうちかつ。これが二作目のあら筋である。
 この作品の特徴は、魔法に、ハイ・マジックとブラック・マジックだけでなく、オールド・マジックが加わっている点であろう。ガーナーは、第一作の、悪をやぶり眠れる騎士を守ったキャデリンの魔法を、いわば理性が生みだした魔法とする。そして第二作の古い魔法を、事物の一部であり、目的が自覚される以前から存在しているものと考える。
 古い魔法は、鹿の角をもつ死の狩人や、古代にあったといわれるまっすぐな道や、月の満ち欠けに影響される魔力などで示され、作品に強烈な神秘的魅力を与えている。しかし、この〈古い魔法〉の新たな登場は、単にめずらしい魅力的な素材であるにとどまっていない。理想的な秩序と大目的をもたず、太陽や月や血とつながってただ存在する魔法が、悪にうちかつところに、ガーナーのテーマがあり、六〇年代のファンタジーの一つの意味が見出せるのではないだろうか。
 ファンタジーの中で、魔法の新旧が筋の運びに密接に関係してくるのは、『ゴムラスの月』がはじめてでない。一九五〇年に発表され、日本でも多くの読者をもつC.S.ルイスの『ライオンと魔女』に、それはすでに現れていた。この物語には、架空の国ナル二アを永遠の冬で閉ざした魔女とライオン神アスランとが戦う場面がある。アスランは、エドマンドという、一度味方を裏切った少年の身がわりになって魔女に殺される。魔女が、裏切り者を裁く権利をもっているからである。そして、この権利を定めたのは、「時のはじまり以来の古い魔法」となっている。しかし、アスランは「時のはじまり以前のさらに古い魔法」つまり、裏切り者にかわって、裏切りを犯したことのない者が自ら犠牲になったとき、死は生にかわるというさだめによって復活する。裏切り者への報復=「時のはじまり以来の古い魔法」は「目には目を、歯には歯を」もってこたえる段階のモラル、自己犠牲による復活=「時のはじまり以前のさらに古い魔法」は大きな愛と考えられる。愛が、より古い魔法となっているのは、ルイスがそれを摂理と解釈しているからであろう。愛と献身による救いをといているところに、戦禍からの精神の復興をめざした一九五〇年代らしい明るさと一種のゆとりが感じられる。
 ガーナーは、ルイスの魔法の順序を逆転させたといってよい。ルイスは、人間を、本能的で原始的な正義から、高次元な論理に導こうとしているが、ガーナーはむしろ、本能的で原始的な正義にたちもどろうとしている。これは、理性によっても宗教によっても防ぎえなかった戦争や、今なお続く差別、憎悪の原因をつきとめ、それらを絶滅させて人間の平和と幸福をもたらす原理をつかもうとするガーナーの努力と考えられる。理性は冷静に行動原理を抽出して教えてくれる。また、それは、今日の文明をつくる基礎でもあった。しかし、理性がどれほど原理・原則をとき、平和と協調の世界をひらく方法を訴えても、偏見と憎悪も差別も争いも、すこしもなくなったようにはおもえない。ガーナーは、理性によっておさえられていたもの新しい光をあてることにより、人間の思考と行動の依って来るものを把握しなおし、それを通じて、新しい人間のモラルをさぐろうとしている。その一つのあらわれが『ゴムラスの月』の古い魔法といえる。だから、彼の人間探求が深まり、テーマが明確化するにしたがって、神話的要素は整理されて減少してゆく。第四作「フクロウ模様の皿』(一九六八)も、ウェールズ神話『マビノーギオン』にある「マソーヌイの息子マース」が使われている。しかし、『ブリジンガメンの魔法の宝石』や『ゴムラスの月』のように、北欧、スコットランド、アイルランド、ウェールズ等の神話・伝説のエピソードや人物がおびただしくつかわれているわけではない。
 すでにかんたんに紹介したが、『マビノーギオン』中の一話「マソーヌイの息子マース」の中に、英雄神ギディオンの息子フルウ=フラウ=ギフェスが、魔法によって花から作られた美女を妻にするエピソードがある。彼女は死の国の王グロヌ=べビルと姦通し、夫を殺させてしまう。殺された夫は父親ギディオンの魔力でよみがえり、グローヌー=べビルに復讐する。そして、ギディオンは夫を裏切った妻をフクロウに変えてしまう。
 『フクロウ模様の皿』でガーナーが使っている神話的要素は、愛のもつれを通して生と死の戦いを語るこの部分だけである。彼は、花からつくられてフクロウに変えられた美女ブロダイエズを、自らの意志を無視されて冷酷な男にめあわされた女性と見なし、ブロダイエズの美劇を現代人の愛の悲劇に結びつけた。これもかんたんに筋を紹介しよう。
 物語のヒロイン高校生アリスンの母は、高校生ロジャの父と結婚したため、一種むずかしい家庭が生まれる。この一家が、アリスンの母の持ちものであるウェールズの谷間の古い屋敷にやってくるのだが、その屋敷の家政婦にも高校生になった息子グウィンがいる。ある日、アリスンとグウィンは天井裏でフクロウ模様の皿をみつけ、その模様を模写したために、花からつくられてフクロウに変えられた神話の美女ブロダイエズが解き放たれて、アリスン、グウィン、ロジャに影響を与える。つまりアリスンと田ウィンに芽生えた愛を、ロジャが嫉妬し邪魔するのである。物語が進む中で、同じ悲劇がグウィンの母親とアリスンのおじの間でもおこり、おじが殺されたことがわかってくる。
 ガーナーがここでえがこうとしたのは、人間が生存を続けるかぎり続くかと思える愛情、嫉妬、偏見である。そして、彼は、神話的人物と、大人と、若者と、三代の愛憎の背景に身分の問題をまず据えている。ブロダイエズは魔法によって生みだされ与えられた女である。グウィンはウェールズ人でしかも家政婦の息子であって、お屋敷の令嬢のアリスンとは似つかわしくない。階級、人種の相違が愛憎の原因になってしまっている。花から人間に、そしてフクロウに変えられたプロダイエズの呪いは、階級や人種による悲劇を生みつづけ、それがすでに血肉化して理性の入る余地がなくなっている人間の愚かしさの恐るべき力を象徴している。そして、その呪いを解く力は、相手を理解すること、つまり、ブロダイエズをフクロウではなく花だと認めることである。アリスンとグウィンとロジャの場合は、社会的に優位にあるアリスンとロジャが、グウィンの人間的優秀さと、彼のアリスンへの愛を認めることである。こうして、ガーナーは、神話時代から続く人間の争いに対する解決のいとぐちを見出そう
とした。
 ガーナーにとって神話・伝説的な魔法の世界は、人間の営みのすべてが簡潔に劇的にえがかれた世界である。理性と感情の織りなす人間のふるまいが凝縮された世界である。そして、ガーナーは、産業革命以来つづいた理性の絶対優位に、感情の力の恐ろしさとその影響力の強大さを対置し、人間理解についての新しい視点を提出した。だから、ガーナーにおける魔法は人間の表現にほかならず、ルイスの魔法が究極的に神の表現であるのと明らかにちがっている。ここに五〇年代と六〇年代のちがいが存在するわけだが、さらにいえば、イギリスとアメリカの児童文学のちがいも、魔法が人間の表現かどうかにある。
 ガーナーは、善の魔法と悪の魔法の対立という類型から原始的な魔法の発見へと進むにつれてより鋭く人間にせまり、徐々に神秘的な素材を切りすて、人間の本質に迫ろうとしている。そのためか最新作『赤色転化』(レッド・シフト)(一九七三)には、超自然的なものは、まったく姿をあらわさない。ローマン・ブリテン時代のローマ第九軍団の生きのこりが、土着民部落をおそい、土着民の娘を愛した一人以外すべて殺されていく話と、一七世紀の王党派と共和派の争いの中で、敵味方に別れた男二人と女一人の愛と裏切りの話と、今日の若い男女の傷つきあう愛が、一つの石斧をつなぎの輪として順番に語られているだけである。物語の終わりに、現代の若者トムは父親の勲章を胸につけて、妻子ある男との情事の経験がある恋人ジャンを駅まで送る。このトムの姿に集約的に表現されているのである。表現は簡略にすぎ、筋は入りこみすぎていて飛躍が多すぎるという評がもっぱらであるが、これは、人生の劇的な表現を神話に見ていたガーナーが、現実の人間に同じものを見出した証拠といえる。作品の完成度についての評価はともかく、これは彼の神話世界的ファンタジーが、何を追求するためにうまれたかを如実に語るものであり、彼にとっては必然の帰結といえるだろう。
テキストファイル化高橋美江