『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

ニ、理屈のつくおもしろさ

 鳥越信は、猪野省三の『夜明けの宇宙堂』(偕成社)の解説中でつぎのようにいっている。
 「おもしろさと価値観(思想性)とは、いつでもわかちがたく結びついているものです。ですから、これを無理に二つにわけて考えたり、ましてこの二つを対立するものと考えて、おもしろさをねらえば思想性がなくなる、思想性をねらえばおもしろさがなくなる、などと考えること自体まちがいだと私は思うのです。」
 彼は、この(正当な)自説を規準に『夜明けの宇宙堂』を評し、
 「この作品には、空とぶ円盤や宇宙堂の資金問題を解いていく探偵的スリルと、受験・進学体制をはじめ日本の現実から生まれる社会的問題への批評とが織り合わさっていますが、その二つの要素は完全に一つにとけあっています。私たち読者は、そんなことは考えないでただ物語の世界にひたって、読者の喜びの中に埋もれていればいいのです。」
とのべている。
 だが、私は、子どもたちが、この物語を読む喜びにひたることなど、とうていできないと思う。まず第一に、スリルやサスペンスにとぼしい。たしかに、あやしげな宇宙堂時計店の主人はあらわれる。そして彼は、宇宙人とテレパシーで交信でき、この町の近くに宇宙船が来るという。その主人は、店を最新式なものに改装したため、一億円強奪犯人と疑われる。だが、それらは、劇的に構成されず、平坦に並び、いささかも興奮、不安をよびおこさない。また、たとえば、受験・進学問題にしても、子どもたちのキャップが、急に元気をなくし、しらべると家庭教師つきで勉強させられている。そのまた家庭教師の女子大生が、教育ママに子どもの勉強に無責任だとせめられると、「だいたい奥さんは……」といった調子で、まちがいを難じて、あっさりやめてしまう。この程度で受験戦争や現代教育の問題点を指摘したなどとは、とても考えることはできない。
 とにかく、この作品は、素材も、プロットも、テーマも、すべてが常套的で表面的で、興味性と思想性が分ちがたく融合した作品とは、義理にもいえない。プロットやテーマが常識的でも、作者の情感がこもっていたら、ある程度すくえるだろう。この作品には、それもない。なによりもいけないのは、登場人物がまったくかけていない点である。それは作者に力量がないというより、事件を展開させていくのは、登場人物たちであること、つまり、それぞれの性格に応じた好奇心、大胆な行動、臆病といったものであることを念頭におかないところから来ている。なぞを子どもが楽しむのは、それが、恐怖の念や好奇心を刺戟するからであって、なぞだからおもしろいのではない。おもしろさは、SF的素材や推理のプロットにあるのではなく、すべて人間に発することを、私たちは原則として忘れてはならないのだが、興味性のつよいと目される作品は、ほとんどその点をはずしている。『雲取谷の少年忍者』(古田足日、学習研究社)にも、それが見られる。
 『雲取谷の少年忍者』は、武士に支配されて戦争のたびに狩りだされ、手間賃をもらってくらしのたすけとする百姓忍者が、やがて、その社会のしくみに抗して、武士を殺し、谷のくらし全部を自分たちのものとするまでを、孤児の二兄弟の忍者としての成長と活躍を中心にえがいたものである。テーマは、たぶん、
 「もし、思いきって、日本じゅうの人びとがじぶんのくらしをすてたら、一月もたたないうちにさむらいは、わたしたちに頭をさげてくることでしょう。わたしはくらしをすて、しっぽをふるのをやめ、主人もやといぬしもいない忍者となって、人びとにくらしをすてることをすすめていくしごとをやることにしました。」(二三三ページ)
という文の現在における意味にあると思う。
 この作品は、少年忍者兄弟、小助と大助の父が、ききんの年、飢えをうったえる幼い大助のために、村の共有のたべものワラビ粉をぬすんで首切られるといったことや、下忍は、買われてきて、けだもの同然なあつかいで忍法を教えこまれるため、一〇人のうち、一〇歳まで生きたのが三人というエピソードそのものの迫力をもつ。筋の運びもてきぱきとはやく、いたるところに忍者の術の披露もあって『宇宙堂』よりはるかにおもしろい。
だが、武士になりたい小助と百姓になりたい大助の会話を、たとえば入れかえてみても、あまりかわりがないほど、人物描写は不足している。その上、精密な描写といえるものがない。
 「いちめんの星空だ。/その星空の下にひろがる野のなかで、なん百、いや千以上のかがり火があかあかともえていた。/かがり火のむれは二つ。そのあいだを銀色にひかる川がながれている。/野はむさしの国深大寺。川は多摩川。多摩川をはさんで、あかんぼうの虎若を大将とする上杉軍と、北条軍とがむかいあっているのだった。」(八三ページ)
 こうした大づかみな描写と、会話と、出来事や行動の説明とから成っているこの作品は、だから、人物と環境の明瞭なイメージを読者の頭につくりだし、フィクションの世界に没入させて読後になにかを残す種類のものではない。会話のやりとりを中心に、たえず考えさせながらテーマに進んでいく、いわばさめた作品である。極端にいえば、ノン・フィクショナルな素材をフィクションにしているともいえる。
 『宇宙堂』も『雲取谷』も、個性のとぼしい登場人物が、イメージ化のむずかしい漠然とした舞台で、作者の予定どおりに動き、読者の思考にはたらきかけて、テーマを伝達する。前者はとくに、物語の小世界に入りこむたのしさにとぼしい。
 猪野、古田の両作家が、自己満足のテーマ主義におちいっているとは、いえないであろう。猪野はプロレタリア文学運動以来、一貫した思想にうらづけられた作家であり、古田は、常に時代の動きに敏感に反応しつつ自らをたしかめて文筆活動と実践活動をしている。そして『宿題ひきうけ株式会社』では、新鮮な子どもの論理を把握しながら、社会の未来像をうきぼりさせる一つのメソドを獲得し、これは子どもの本棚にほぼ定着した。
 その古田の新作に、彼のものとしてはすでに新しくない手法を見ることに、私は、今の児童文学の問題を感じる。下は常識的テーマのアピールで自己満足する作家や、テーマ主義に逃避して、真の創造をサボっている作家から、分析力、洞察力に富み、現実へのとりくみももっとも果敢な作家たちにいたるまで、大きく人間の問題が欠落している。
テキストファイル化四村記久子