『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

4 ふしぎさと奥行き

 最近出版された数多くの幼年、小学低・中学年向きの空想物語を読んで気づいたのは、現実のもう一つ向こうになにかがあるといった感じを持ちえたのが『雨の日のどん』、『こわっぱのかみさま』以外では、今江祥智の『いってしまったこ』(実業之日本社、一九六九)と佐藤さとるの『あめふりこぞう』(偕成社、一九七一)程度であったことである。
 『いってしまったこ』はつぎのような筋の話である。三郎という子は、なにをやってもへまばかりしていて、友だちと遊べない。たこあげで友だちのたこをおとしてしまい、家へ帰って雪だるまをつくってもうまくいかず、雪だるまをけとばして家にはいると、今まで聞いたこともない女の子の声が名をよぶ。三郎は出ていかない。すると翌日の夕方、またその子はやってくる。見ると小さな女の子。三郎は遊ぶ気をなくしてことわる。女の子はつぎの日も来る。今度はかなり大きい少女になっている。二人は雪だるまをつくるが、三郎は相変わらずへたで、女の子もつい笑ってしまい、三郎をおこらせる。
 つぎの日の夕方、父親が熊にやられてたおれこんでくる。三郎は山越えをして医者を迎えに行き、凍死しそうになる。そこへ、女の子があらわれ、雪だるまを笑ったことをあやまり、二人はそこで雪だるまをつくりなおす。おかげで三郎は凍死をまぬがれ医者を迎えて帰る。そして、それ以来、女の子のゆきちゃんは、二度とやってこない。
 自信を失ってすねた男の子と、あきもせず遊びにくる女の子のやりとりは、子どもの世界によく見られる姿であるから、遊んで、恩を受けたとたんいなくなる女の子への思いは、男の子の淡い悔恨とわびともとれる。今江は過去にのこした小さな悔恨のきらめきを追って、それを雪むすめの幻想に結晶させたのかもしれない。読者の心に確かなものを残して消えてしまうもの--ふしぎとはそんなものなのであろう。佐藤の『あめふりこぞう』も、かたつむり型のからの中につまった雨のもとを見せ、うつくしい雨をふらせた後に、忽然と消えてしまう。
 ふしぎを味わうことは、いうまでもなく、日常性のからを破ることである。幼い読者にとっては、変化する事象のうらの意味を伝達されるより、ふしぎとの出会いにより、当然の連続を破られる方が、じつははるかに進歩的なことなのではないだろうか。
 それに加えて、私は、空想の物語にしばしば感じられる深みとか奥行きを、今はやりの問題意識をもつ作品とくらべて考えてしまう。
 『プー』のような裏がないといわれる作品はべつにして、『ホビット』、『ナルニア国物語』、『グリーンノウ』シリーズなどを読むと、物語の背後に多くの意味がこめられていることが、だれにもわかる。そして、それが宗教と密接にかかわっていることも、ほぼ定説である。しかし、宗教とは無関係に生まれた佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』シリーズや『龍の子太郎』、『ちびっこカムのぼうけん』、『こわっぱのかみさま』などにも、イギリスものとは異質ながら、やはり、深みや奥行きが感じとれる。これは、多分、佐藤はコロポックル伝説と神奈川という風土に、松谷は日本の昔話に、神沢は北方の伝説に根ざして創作した点にあるだろう。昔話、神話、伝説、宗教など、基底にちがいはあるが、それぞれに、長年月の人間の生活が生み出し、試行錯誤し、つくりなおして今日に至っているものから、なにかをくみとっている。これからも持ち伝えていかなくてはならない人類の知恵が多く含まれている。それが深みを感じさせるのではないだろうか。今まで持ち伝えてきたもの、そして、これからも維持する努力を続けるべきものが、現実の生活の中での公害防止と絶滅のための努力となり、戦争をなくす戦いになる。すでに声価の定まった作品にある深みを、あらたな個性がまた新しくなにかを加えつつ創造していくところに、私は、空想的な物語という分野にあるのではないかと考える。
 低・中学年向きの本は、数ばかり多くてよいものがすくないとよくいわれる。供給が需要に追いつかず、作家の乱作が原因だという意見がある。たしかに一つの理由である。多くの作品を短期間に創作し、しかも一つ一つに新鮮ななにかを加えられる豊かな才能の作家は数が少なく、多くはほぼ同じ鋳型のものをつぎつぎに出して、読む側をうんざりさせている。
 ユニフォーム版がわるいという意見もある。たしかに、あらかじめ枚数を限り、さし絵の数をきめたような本は、いわば規格品づくりであって、作家の自由な創造にブレーキをかける。ユニフォーム版で傑作が生まれた例は世界でもほとんどない。だが、最大の理由は少年少女小説以前の子どもたちの文学について、作家も出版社も批評家も、現在ほとんど考えることをやめている点にあると思う。
 この分野は、いぬいとみこの『ながいながいペンギンのはなし』(宝文館、一九五七、現在、理論社)にはじまり『いやいやえん』に至る期間に、大人の独善的メルヘンから子どもの内面に則した物語へと大転換をとげた。そしてそれ以後、「降盛に向かいました」で終わった。そして気づいたとき、私たちの前には、規格品の笑いと、規格品のテーマ童話と規格品の現代風しつけ童話がきらびやかにならんでしまった。
 今のような時代には、豊かな想像力と鋭い問題意識と、透徹した洞察力は、高学年に向かってしまうのかもしれない。しかし、幼年、小学校低・中学年の文学に、すぐれた才能の発揮がほしい。
テキストファイル化永井オリエ