『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

三、空想の質はどう変わったか

 戦後の幼年向き文学(小学三・四年までの空想的な作品を含めて)の大きな変化は、一般に童話といわれた空想的な物語の質が明瞭に定義され、意識されるようになったことである。
 従来の童話概念に対する批判は、すでに引用した昭和二八年の早大童話会による「少年文学の旗の下に」においてであった。これは、従来の童話の欠陥を指摘せず、新しい空想の提示がなかったため、具体的な影響を与えなかったが、従来の空想の展開に最初に疑問を表明した見識は評価しなくてはならない。
 つぎにあらわれた批判は石井桃子、瀬田貞二などの『子どもと文学』(中央公論社、一九六○、現在、福音館)であった。この本の主張は、より明瞭に、くわしく、リリアン・スミスの『児童文学論』(石井、瀬田、渡辺訳、岩波書店)に出ている上に、すでに論じつくされているので、ことさらにここに持ち出すことは、筆者たちにとっては、いささか気の重いことかもしれない。しかし、現在の作品を考える上で必要なので、あえて引用すると、空想の物語(ファンタジー)を、「非現実をとり扱いながら、目に見える、具体的な、一つの世界をつくりあげている物語でなければなりません」と定義し、さらに「非現実をえがく物語だから、論理的な運びもいらず、人物の性格もえがく必要なしとでもいうかのような作品をたくさん生んできました。たとえば、前の段に出てきた時は、やさしいお婆さんだったのが、後段では、いきなりいんごう婆さんになっていても、現実の話でないから、べつにさしつかえないように思っていました。けれども、このように首尾一貫しないで、その時どきに、強い感情的イメージをあたえるシーンをつなぎあわせた物語は、戦後、子どもに、何かかなしかった、さびしかったというような情緒的印象をのこすだけで、一つのつながりある、つまり、生きて動く世界とはならないのです」と意見をのべた。
 彼らの主張あるいはイギリスのファンタジーの導入は、未明、広介等の具体的批判をともない、子どもにみとめられたヨーロッパの作品を背景にしていたため、大きな反響をよんだ。一○年以上の歳月を経た今、さまざまな作品に接すると、その好影響及び、悪影響というか、主張の誤解というか、とにかく悪く出た面は歴然としている。
 たとえば、ごく平凡な作品だが『のぶことかがみのみち』(沖井千代子、実業之日本社、一九七○)にも、好影響は尾をひいている。これは、一人の少女が床屋さんの鏡の世界にはいっていく話で、鏡の国にはおひなさまがいる。少女は、田舎のおばあちゃんが年々すこしずつ送ってくれる大きさのちがうおひなさまのことを作文に書き、お姉さんにしかられそうなので、学校の帰り道直接床屋さんにとびこんで、そのまま鏡の国にはいっていく。少女の後から鏡の国にとびこんだ床屋さんは、おひなさまたちの前で少女の髪をととのえる。そのとたん、御殿の門があいたかと思うと、姉さんが少女を床屋さんに迎えにきたということになる。鏡の国と現実の国とのちがい(〈アリス〉のような)もなく、おひなさまとの話も平凡で、はずみのないものだが、鏡の国への導入の仕方や、話の前後関係には、一応、論理的な筋が通っている。これを、たとえば、平塚武二、与田準一、佐藤義美などの童話とくらべると隔世の感が深い。
 そこで、一九七二年の『こわっぱのかみさま』(佐々木たづ、講談社)を、考えてみよう。
 「山のみどりは、ますますふかくなりました。/真夏のたいようが、かさなった葉のすきまからもれて、しめったこけに、もようをつくっているのを、ある朝、けやきの木はぼんやり見ていました。/すると、森のずっとおくのほうから、ことりや木々のわらう声が、波のようにつたわってきました。/『なんだろう。』と、ふと目をあげ、けやきもおもわずわらいだしました。」
 それは、こわっぱの神さまが、鳥のまねをして枝から枝へとつたってあるくのを、一羽のホトトギスのひなが、まねしてついてくるからだった。こわっぱの神さまは、親が無責任に生み落としたホトトギスのひなを、えさをやって育て、あるかせ、とばせ、鳴き声まで教え、母鳥と共に旅だたせてやる。その他、雪山を歩く二人の旅人を、姿を見せず里までつれていったり、村のにわとりの病気をなおしたりするエピソードがつみ重なっている。引用箇所を選んだだけでも、これが、地勢のはっきりわかるような、そして景色が一目にしてわかるような描写でないことがわかる。いわば抽象的である。それでいて、短編連作形式の物語を読んでいるうちに、深山が見え、動植物が見え、それらの守り手である小さな神さまがあざやかに浮かび、若々しい生命のみなぎりが神秘な香りとともに実感される。
 これは、ルーシィがたんすの中の毛皮の外套にふれているうちに、ざらざらした感触に変わり、気がつくと冬の夜の森に出ている『ナルニア』の描写とは異質であり、『ナルニア』より描写のきめの荒い『メアリー・ポピンズ』や『ドリトル先生』でもない。これは「詩的空想を以って作成された、魔法の国からの物語で、現実生活の条件にわずらわされない不思議な話です。そこに何か『不可思議なもの』が入っています。」(横田敏郎〈グリム兄弟〉より。『世界の童話作家』、ほるぷ出版、二六ページ)という定義にかなうメルヘンであり、イギリス流の空想とは質がちがっている。それでいて、すぐれたファンタジーが持つ、より広い世界や現実のかなたにあるものをあやまたずに伝えてくれる。
 戦後の新しい文学、特に空想の分野に一つのエポックをつくった『龍の子太郎』(松谷みよ子、一九六○)や『ちびっこカムのぼうけん』(神沢利子、一九六一)にも、『こわっぱ……』とほぼ同様の質の空想を見ることができる。
 『龍の子太郎』は昔話を素材に、一つの物語を創造したものであるから、メルヘン的なのは当然といえようが、作者の独創である『カム』も、
 「ずっと、北の北のほうのくにに、一年中、まっ白な雪をいただいて、そびえたつ、大きな山がありました。/そのいただきから、巨人のはく、いきのように、もくもくと、けむりをふきあげ、くらい夜には、空までとどく、火のはしらが、とおい海からも、みえました。/いままで、だれも、のぼったことがないという、その山のてっぺんには、ガムリイという、大男のオニがすんでいて、夜な夜な、北の海のクジラをつまみあげては、火にあぶってくっていると、いわれていました。/火の山のふもと、ひろい野っ原と、ひとにぎりのカバの村。/そのなかの、ちっちゃなテント小屋に、カムという男の子が、びょうきのおかあさんと、ふたりですんでいました。」
といった、どちらかといえば粗放な叙述ではじまっている。ところが、父親をすくい出すためにこのガムリイ退治に出かけ、北の海まで旅をする勇敢で行動的なカムと、彼の活動舞台は、くっきりとあざやかである。おそらくこれは、松谷も神沢も、登場人物の活動舞台が、心の中ですっかり見え、感じられていたことによるのであろう。作者が、えがこうとする空想の世界を、的確に心中のイメージとして持っているかぎり、それが読者にふさわしく伝えられればよいのであって、描出は、イギリス流のリアリスティックな方法によろうが、簡明で抽象度の高いメルヘン風になろうが、それは一向にさしつかえない。
 私は、石井、瀬田たちによるファンタジーの解説中、論理的という点と、目に見える具体的なという点が誤解されたと思う。論理的ということは、必ずしも一つ一つをくわしくえがくことでも、話や筋が単純明快にたどれることでもない。全体が、調和のとれた、くっきりした物語世界を見せ、作者が子どもに向けてかいたものが、まとまって心にのこることであると思う。必要なのは、空想の世界をまず作者がはっきりと見ているかどうかであって、どんなかき方をするかではないはずである。
 第一、いささか大ざっぱないい方になるが、大量に出版される幼年、小学低・中学年向きの空想の物語で、イギリス風なファンタジーの世界を創造しえているのは、佐藤さとるくらいで、あとは、程度の差こそあれ、メルヘンにより近いものである。なぜなら、今まで名をあげた作品のほとんどが、(幼い読者向きであるため当然なことに)魔法の世界をはじめからみとめ、万物ははじめから口をきき、かりに存在するとしても、現実と空想の世界の境界は、すきとおるうす紙程度でしかない。そして、高学年向きに、ほとんど空想の物語がないことを合わせて考えると、イギリス流のファンタジーは、日本人の空想表現と体質的にちがうと考えざるをえない。感覚的にちがうものをむりにこしらえることはないので、各人が自らもっとも適した空想を展開すればよい。現状は、イギリス風な空想の手法を加味したメルヘンが圧倒的であるため、のっぴきならず空想世界に読者をひきこんでいく迫力をもつイギリス的ファンタジーの長所も、一瞬に永遠を感得させるようなメルヘンのよさも失った、奇妙に平凡なものが多くなっている。
 中でも、特に残念なのは、ふしぎさの喪失である。
(テキストファイル化武像聡子