『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

二、では、何が必要なのか

 大量に生産されるこの分野の作品で、では、現在、なにがよいか。残念ながら、これこそと推せるものは、あまりみつけることができない。しかし、すくなくとも、読んでいてこころよいもの、本質的に正当なものなどを、出来、不出来に関係なく列記することはできる。
 『おひめさまとアイスクリーム』(大石真、偕成社、一九七〇)という作品がある。五百年ほど昔のこと、一年中あつい国に住む美しいララタ姫が病気になり、日に日にやせほそる。姫は遠くのオガンガの山の雪がたべたいというだけで、何も口にしようとしない。王さまは、一〇人の家来に命じて雪をとりにやらせるが、家来たちは山の動物にはばまれる。そこで百人を武装させて動物を追いはらい、無理やり雪をとるのだが、頂上から落とされた岩に追われてまた失敗する。万策つきた王のおふれで、若者アックが山にむかい、動物に雪をとらせてくれとたのむと、動物たちは、それならそうとはじめにいえばよいのにといって、頂上から麓までずらりとならび、雪玉を背中をすべり台にしてころがし、駿足のシマウマを使って、雪をララタ姫までとどけてくれる。
 強いて教えを求めるなら、何かがほしかったら力ずくよりまずたのめといったことくらいで、あとは物語のおもしろさで読ませてしまう。この種の作品は、現代批判云々といった評価ができないので、思想性希薄などといわれて片づけられることが多い。だが、確固とした物語世界の構築は、日常の中では経験不可能な未知の領域に読者を誘いこみ、体験に準ずるものを味わわせる点だけでも、解説風な現代批判にまさることはるかなものがある。キップリングの『ぞうの鼻はなぜ長い』が現代に至るまで幼い読者をひきつけているのも、つまりは物語のたくみさである。興味ある物語の創造は、それ自体大きな機能を持つのであって、単に技術などではない。もちろん、物語には、対立するものがなくてはならないとか、出来事が連続しサスペンスやスリルが持続しなくてはならないといった、使い古された技法にのみたよって、独創性に欠ける作品が読者を満足させる世界をきずきえないことはいうまでもない。『おひめさま……』と同じ魅力を持つ作品に、山中恒の『このつぎなあに』(あかね書房、一九七一)をつけ加えておこう。
 『あめの日のどん』(岡野薫子、実業之日本社、一九七〇)も読んで楽しく快いものであった。どんは、雨の日にだけえみちゃんのところへ遊びに来る黒猫で、えみちゃんと赤ちゃんごっこ、ジャングルごっこなどをする。三話ある中でもっともよくできているのは、学校ごっこの巻であろう。どんは、友だちの猫二匹をつれてえみちゃんのところへ算数の勉強にやってくる。えみちゃんはにぼしでまずたし算をするが、猫たちはひき算がすき。五匹から二匹ひくと……猫たちは二匹のにぼしをさっとたべて、こたえは三匹。
 「あたたかい おてんきのひでした。/えみちゃんは、かれはの つもった さかみちを、とっとと おりて、がっこうから かえって きました。/さかを まがると、いしべいのしたの ひだまりに、四ひきの ねこのいるのが みえました。/どんに みみにとら、それから、えみちゃんの しらない ぶちねこが 一ぴき……。どんのまえに、三びきの ねこたちが、きちんと すわって ならんでいます。/『あ、がっこうごっごしてる。』/えみちゃんは にっこりしました。」
 雨の日にだけやってくるという猫の着想には、メルヘンの持つ不思議さがちらりと顔をのぞかせ、にぼしとひき算には自然な笑いがあり、そして、全体に空想を楽しむ時期の少女の、やわらかく甘く楽しい内面の世界がしっかりととらえられている。それは、感傷ではない。共感、同情、協調などのヒューマンな心的態度を生む母胎であり、性急でささくれだった昨今、とかく感傷と見誤まられがちなものである。同じ作者のものだが、ややコンヴェンショナルに過ぎる点の多い、『コン吉』四部作(偕成社)もここに加えてもよいだろう。
 寺村輝夫の『ゴンボの教室』(あかね書房、一九六九)も、いろいろな点で興味ある作品といえる。ゴンボは小学三年生で、あまり勉強はできない。ところがある夜、夢で問題をすらすらといて先生にほめられ、夜には<何か>があることに気づく。結局、彼は、夢で、すべてを透視するポケットライトを手に入れ、人の心も問題の答もたちどころにわかるようになる。ゴンボがそれをクラス全員に使わせると、ゴンボのクラスは教科書などさっさと終わり、音楽、体育などポケットライトの使えない学科だけの時間表を生徒がつくってしまう。もちろん先生はそれをみとめない。さらに電気会社の社長は、ポケットライトの秘密を知るために、それをうばってこわしてしまう。
 夢と現実の交錯に難があって、いささかの安易感を持たせるが、競争を基礎にする教育への批判、利潤追求への批判などが奇抜なアイディアでテンポはやく語られてあきない上に、作者が大人よりも、子どもの立場に立っている点に断然たる魅力がある。子どもが強く共感するのも、その点だと思う。
 以上あげた諸作品が、物語の作法の面、アイディアなどで欠点のないものだとはいわない。だが、他のものにくらべて、すくなくとも私は、幼年向きの空想物語の本道を歩む、魅力ある作品として読めた。以上のわずかな例から、全体をまとめるのは危険であろうが、すくなくとも、空想の物語が本道を歩むためのいくつかの条件は抽出できるのではないだろうか。
 その第一は、くりかえしになるが、魔法あるいはふしぎなことのおこる物語世界の創造である。現実よりも、そしてリアリスティックな物語よりも、はるかに自由で願いごとのかなう世界、登場人物たちが、信じられないような冒険や幸運にめぐまれて幸福をつかむ世界が、子どもにとってどんなに必要なものであるか、くどくどのべることもないであろう。現在、私たちの周囲には、よくできた空想の話を、無思想とか深みがないとかいってうさんくさく思う目的意識の持主が充満している。だが、作者がそのすべてを投入してつくった空想の話は、ちっぽけな教訓や現状解説風の、空想ともいえない空想などより、はるかに子どもの読書の目的にかなうものであることを、世の大人たちはよくおぼえておいてほしいものである。
 第二は、やはり子どもの心の洞察である。子どもを知れという主張は戦後児童文学を変える基調音の一つだった。そして、幼年向きの空想物語では、中川李枝子の『いやいやえん』、『カエルのエルタ』、『ももいろのきりん』が生まれ、神沢利子の『こぶたのブウタ』、『くまの子ウーフ』が生まれ、村山桂子の諸作が生まれた。そして、昨年は、るすばんの男の子が、訪ねてきたおばあちゃんをやまんばと思いちがえるゆかいなごたごたをえがいた『やまんばがやってきた』(渡辺茂男、学習研究社)が出た。
 こうした作品群は、高踏的に美を語ったり、愛の尊さをのべたりするかつてのメルヘンにくらべ、子どもに本の楽しさを知らせ、ユーモアを理解させ、人間理解の目をそだてる上でより大きな力になった。だが、こうした作品は数の上でひじょうにすくない。大部分は、かつてのいわゆる幼年童話にあらわれた子ども観=子どもは大人より空想する力があるといった程度の認識をしかもたない。だから、科学的空想なら子どもは喜ぶはずだとか、おもちゃの国だとか、型どおりの空想がまかりとおっている。
 そして、もう一つ、大きく欠落しているのは、子どもが持つやさしさ、素直さなどがつくる世界である。この面は、戦前の童話の時代にじつは強調されすぎて、今はそれに対するリアクションが、子ども行動性に象徴されるかわいた面を前面におしだしている。それは、中川、神沢、渡辺などにもよい特徴としてはっきりとあらわれている。だが、残酷さ、ずるさ、自己本位が子どもであるとすれば、やさしく素直でもろいのも子どもなのである。やさしさ、やわらかさをセンチメンタルに強調することは必要ないが、そうしたナイーブな面が生む空想の世界に、トーベ・ヤンソンのいう虹の橋をわたる世界があるのではないかと私は考えている。そして、そこに、人間らしさの根もあると思う。やさしい心をえがくことを甘さととる人が多すぎるから、今の幼年向きの作品には、しわがれ声の笑いや大人のおしつけばかりが横行する。
 第三点は、作者と読者の関係についてである。子どもの文学は、大人が子どもに向けてものをいう。どんなに子どもを理解し、近づいても、大人は自らの立場をすてきれるものではない。子どものみせかけの欲求と真の欲求のすべてを満足させるために、大人の立場をすてれば、その文学は退廃的なものになってしまい、大人としての価値基準を一方的に持ちだしたとたん、子どもからの遊離がはじまる。やみくもに子どもの側につくことはセンチメンタルであるし、一途に教え導く姿勢は、まともな作家にできることではない。結局、大げさにいえば、人間の営みのプラスとマイナスについてしっかりした見識をもった大人で、子どもの側にたって、彼らのプラス面をのばす手助けをする姿勢のとれる人が、ほんとうに子どもの心の糧となる作品がのこしていけるのだと思う。それにしても、子どもと共に遊び楽しむことによって、子どもにとってひじょうに大切なものを与えられる分野に、どうしてこんなに説教者たちが多いのか、ただとまどうばかりである。
テキストファイル化天川佳代子