『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

生活童話

 軍国主義化が進み、共産主義者をはじめ、アナーキスト、リベラリストに至るまでの弾圧がつよまる時期になると、現在、「生活童話」と一般によぱれている作品群が生まれてくる。
 「生活童話」は、本来的には塚原健二郎氏の「集団主義童話の提唱」(一九三三)という論文でまとめられた考えあたりからはじまっているという。その主要な主張は、「児童の集団的生活(社会的)の中に於ける自主的、かつ創造的な生活を助長しその個々の生活行動を通して、新しい明日の社会に向ってのびて行くための童話」(「日本児童文学大系」(3)、三八三ページ)ということであった。そして、その歴史的な位置は、「『社会主義』の『社会』を『生活』といい『集団』という言葉に置きかえる偽装、反動期に合法性の幅をひろげるために必要であった奴隷の言葉による表現が、ここには読みとれるが、これは『生活主義教育』とか『生活短歌』として文化運動の他の領域でも同じように配慮されていたことである。『生活主義童話』または『集団主義童話』の実質的なねらいは、児童の生活に即して民主主義的原則をつらぬくことにあり、作品の主題としては、児童における社会性の発達を扱ったものが多かった。」(菅忠道『日本の児童文学』、二二一ページ)と規定されている。塚原健二郎氏は、論文発表の時点で、集団主義童話の好例として、槇本楠郎(一八九八〜一九五六)の『掃除当番』(昭和八、一九三三)を評価している。これは、学校を素材にした短編で、四年生の教室に五年生がやってきて、ぞうきんをとっていってしまうところからはなしがはじまる。四年生は、掃除にこまるので、五年生のところへ抗議に行く。すると、五年生は六年生にぞうきんをとられていることがわかる。四年生と五年生は、六年生の教室へ抗議に行く。ちょっとした緊張場面があった後、「『ねえ!みんななかよくしようよ。ぼくたちもね、さっき、この五年生の組に、ぞうきんを一枚とられたんだ。だがもう返してもらって、なかなおりしたんだ。だがねえ、こんなふうに、ぞうきんの取りあいごっこをするのも、もとは、どこにもボロぞうきんしかないからじゃないかな?ぼくんとこなんかにゃ、みんなで五つあるんだけど、ほんとうは三つぶんぐらいしかないや。だからね、みんなでこうしようじゃないか?』
そういって、小泉くんはみんなの顔をみまわしました。みんな熱心に聞いています。そこで小泉くんはつぱをのみこんで、またつづけました。
『あのねえ、こうしたらどうだろう?四年生以上の組には、どの組にだって『クラス自治会』があるね。そこへぞうきんのことをもちだして、ボロになったら、すぐあたらしいのを、学校から出してもらうことにしたらどうだろう?そうすると、ぞうきんの取りあいごっこもなくなるし、そうじだってすぐできて、きれいにできあがると思うんだがな。どうだろう?』
『うまいうまい、さんせいさんせい!』と、五年の当番長が、おどけたかっこうで手をたたいてさけびました。『四年の当番長は頭がいいや!』(「日本児童文学大系」(3)、二六〇〜二六一ページ)

 不足しているものをめぐる、腕力が支配しがちな小学生のうごきの中で、間題の本質に達するプロセスをえがいているといえぱ、ひじょうにすぐれた作品のようにきこえるが、要するに作者の図式どおりに紙人形のような人物たちが動きしゃぺっているにすぎないもので、現在の目から見れば、お粗末な作品だが、時代を考えると、当時の子どもたちには、新鮮なおどろきであったかもしれない。いずれにしても、これは歴史的な作品であって、「生活童話」の主要な作品は、時勢の悪化がつよまってからあらわれる。弾庄に対する抵抗の精神と現実への妥協というぎりぎりの立場で作家の力量が最大限に発揮されるのである。そうした作品をのこしている代表的作家は、川崎大治、関英雄、岡本良雄などであろう。
 川崎大治(明治三五、一九〇二〜)は、プロレタリア作家同盟に加盟した作家で、昭和十三年(一九三八)の『タ焼の雲の下』でその名をあらわした。これは、つぎのような筋である。

 末治は、ひょうたんぼっちゃんとよぱれている庄太にせきたてられて、地蔵山のたぬきをとりにいくことにする。学校がえりだから、かばんは、くず屋のせがれのボロ辰にもたせる。庄太がうさぎを一匹やるとだましたのである。
 庄太と末治はさんざんたぬきをさがしまわるがみつからない。そのうち末治は、町の紡績女工をしている姉に、ユリ根っこを送ってやりたくなって、庄太と別れて土を掘りはじめる。そこへ辰が大きなユリ根っこをたくさんとってあらわれ、末治の目的をきくと、よい根のある場所を教えてくれる。二人でたくさんとったところへ、庄太があらわれて、二人のユリをよこせという。末治はしかたなく承知するが、辰は、めずらしくいやだという。かっとなった庄太が、辰のユリを川へほおリこむと、辰が庄太のかぱんを、地面にたたきつける。二人はとっくみあって、最後に辰が勝ってしまう。

 これは、子どもの世界にしばしぱ見られる出来事であり、作者はそれをたくみにまとめているわけだが、作者の歴史や時代を考えると、庄太に象徴されるものと辰に象徴されるものとが一読してわかる。だが、今の子どもには、そのようなことは無縁である。からいぱりしていたもののからっぽの栄光がくずれ去る小さな話として、これは今もなお、子どもたちにさわやかな感動をよぷにちがいない。それは、作者が、自己の主張をむきだしにせず、それを子どもの世界の出来事におきかえ、子どもたちを生き生きとえがいているからである。これは児童文学の方法としては、もっとも正当なものであって、たとえば、ケストナーの『エーミールと少年探偵たち』などが、やはりこの方法でかかれている。川崎がこの方法をとったのは、子どもの世界に、にげこまざるをえなかった客観的な状勢はあるにしても、日本の児童文学では、まれなことであり、ことにリアリスティックな作品では、ほとんどはじめてであったといえると思う。
 川崎大治は、『カンカン袋』『島の学校』『太陽をかこむ子供たち』などで、つねにはたらく子どもや労働者・農民の子どもたちを、生活に即してえがきだし、そのうらに彼の主義主張をひっそりとこめた。その意味で、彼の作品はリアリズムの短編小説といえるはずなのだが、やはり童話がふさわしい。というのは、底に抵抗精神をひめた彼の作品にも、譲治や朝彦などと同様な抒惰がながれているからであり、登場人物が、リアルでありながら、やはり一種の理想像だからである。『タ焼の雲の下』の結末が、この二つをもっともよく語ってくれる。
「組みしかれた庄太は、辰公のはげしい息づかいに、いままでにない恐ろしさを感じました。あたりがだんだん暗くなって、寒気がしてきました。でも、ふと、末治が泣きながら、『辰う、辰う、けんかよせえ。庄さだって、もう、こんな……こんなことしないから……。なあ、たのむから……。』
 そういっているのをきいたとき、庄太は、なんともいえない気持ちになって、いきなりわあっと泣き出してしまいました。庄太は、しぱらくしてからだが軽くなったので、よろけながら立ちあがると、じぶんのすぐまえに、辰の影が美しいタ日をうけて、長く長く土の上にうつっていました。末治は、そこらにころがっているゆり根っこを、しきりにひろいあつめました。
 辰は、はだけた着物を直して、末治のあつめたゆり根っこをだいじそうに受けとると、『末ちゃあ、帰ろう……。』と、静かにいいました。
末治は、とてもうれしい気持ちで、辰のあとについて、歩きはじめました。末治には、辰のことが、きょうほど、偉くそしてなつかしく思われたことは、いままでにありませんでした。庄太は、いちぱんうしろから、すこし首をたれてついてきました。
やがて日が沈んで、三人の頭の上の雲までが、赤くきれいに染まりました。
里のほうでは、ゆうげの煙があちらからもこちらからも、タ焼けの空に白く立ちのぽっていました。」(『タ焼けの雲の下』、大日本図書、四三〜四四ページ)

 川崎大治の世界は、どこにでもある出来事とどこにでもみつけられる抒情をえがきながら、やはりそれは、現実よりも、ことがうまく運ぶ世界、一種の理想の世界であったといえる。
彼よりも、一段と抒情とノスタルジアがつよい少年の世界をえがいたのが関英雄(明治四五、一九一二〜)である。関英堆は、電気技師であった父とともに、あちこちにうつりながら幼少年期をすごし、やがて九才で父を失う。
その幼少年期のさまざまな経験が感受性ゆたかな心にきざみつけたものを一見たんたんとつづったものが、彼の代表作である。
 『北国の犬』をみよう。主人公「わたし」の父は、「わたし」を上の学校へ入れる資金をつくるために、小さな北国の鉱山村へ電気技師として赴任する。そこは、さびしいところなので、父が「わたし」のために、一匹の赤犬をつれてきてくれる。ある雪の夜、このアカが、父といっしょでなくもどってくる。母と「わたし」が心配していると、翌日の夕方父はぶじにもどってくる。
「おとうさんを見ると、アカはきゅうに元気がよくなって、尾をふっておとうさんにとびつきました。おとうさんは、あまりものをいいませんでしたが、アカを見ると、
『こいつ、さきにきていたのか。』
と、いいました。
 わたしは、おとうさんがなにもいわなくとも、おとうさんのすがたを見ただけで、なみだが目の中にたまってきてしかたがないので、おとうさんにでなく、いきなり、アカのくびたまにかじりつきました。『アカ、アカ』といいながら、わたしは、雪にうもれたさびしい家の中でしたが、とつぜんあたたかい春がきたような気持ちが身うちを流れるのを感じました。」(『北国の犬』大日本図書、八七ページ)
 こうして、アカは「わたし」の家の生活にとけこんでいく。しかし、父は、発電所主任になって、さらにさびしい部落へひっこしてから、体をこわしてしまう。そして、今までおこったこともない「わたし」にどなったりする。そして、ある日、アカがうるさいといって心張棒でなぐりつける。アカは、にげだしてしまう。
「それっきり、いく日まってもアカはかえってきませんでした。とうげの道をアカらしい犬がうろうろしているのを見たという人がありました。おとうさんはわたしを上の学校へいれるために、しばらく山の中ではたらいて、お金をためようとおもっていたのが、病気のために、どうなることやら、わからなくなってしまったので、むしゃくしゃしていたのでしょう。わたしは、アカがおとうさんのしんばりぼうの下をくぐりぬけるとき、それまでじぶんをあんなにかわいがってくれた人が、どうしてじぶんをうつのかわからないといいたげに、茶色の目がかなしげな色をうかぺたのを見ました。
『春雄、アカはどうした。よんでおいで。』おとうさんは、アカのゆくえがしれなくなってから、なん日かたったとき、そうわたしにいいました。」(同前、九四ページ)

 この作品もそうだが、彼の他の作品『幼年日記』などもみな、とりたてて筋がないにもかかわらず、ふしぎに読者をひきつけて読ませるかくれた筋ともいうべきものをもっている。これは、各作品が、一人の人間の成長の一部をうけもっているからではないかと思う。そして、たとえば、『北国の犬』の父親に対する目が、愛情と同情にみちているように、関は自分につながる人びとを愛惰と共感をもってえがき、彼らのくらしを地味に追い、そこから人生への目を読者にもたせようとつとめている。一見かぼそくて淡彩な関の作品が、読後に重厚ともいえる印象をのこすのは、人聞と人生への深い洞察が、きめこまかな抒惰の底にあるからである。
 関は、リアリズムの手法に忠実であれぱ、重苦しいにがりをのこしたであろう素材を、回想のべールによってやわらげ、やわらかくものがなしい子どもの世界をきずいてみせた。わたしは、関の作品あたりが日本でいわゆる〈童話〉といわれるものの最後ではないかと考えている。第二次大戦をさかいに、すぺてはかわり、日本の児童文学から、真に童話とよぺるものは消えたと思う。
 関とほぼ同時期に作家活動を開始した岡本良雄(一九一三〜ー九六三)の戦前の作品に『八号館』(昭和十八、一九四三)がある。シナそぱ屋、くず物の寄せ屋などがあつまっている「市営住宅、働く家八号館」にすむ、尺八つくりの息子源吉が、くず屋でこわれた望遠鏡をなおし、その夜の月食が観測できるようにする。八号館中が、にこにこ楽しみにして、ついに、日夜貧乏に追われて尺八などふこうともしない源吉の父親にまで、尺八をふくことを約束させてしまうという話である。
 庶民のくらしを強い共感をもってたくみにまとめた小品だが、リアリスティックでありながら、やはりここにも、善意と希望がつくりだす現実でない小さな世界が感じられた。だが、戦後、岡本がつぎつぎに発表した作品群―迷信打破を訴えた『あすもおかしいか』、奴隷の思想を告発した『イツモシズカニ』、民族の独立をテーマにした『太郎と自動車』などからは、するどい批判と歯切れのよい主張は感じとれても、『八号館』のもっていた一種のどかな小世界はきえてしまっている。

テキストファイル化小田美也子