『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

理想の子ども以後の問題

 未明も譲治も、それぞれ、理想の子ども像を心にいだいていた。未明は、子どもを、生活になれて物事を新鮮な目で見られなくなった大人とちがい、つねに全力で物事に対し、それにとりくもうとする、まじめで、感覚がするどくて柔軟性に富んだ人間だと考えた。そして、童話作家は、そのような子どもとおなじ態度で物事に対し、そこから作品を創造していけば、かならず子どもに理解してもらえると信じていた。
 この未明とは、いささかのちがいを見せながら、譲治も広介も、やはり、子どもを純粋無垢なものと見る点ではおなじだったと思う。
 子どもを無垢なものとする考え方は、児童文学の転換期によくあらわれている。児童文学の夜あけの頃、イギリスの詩人ウイリアム・ブレイク( 一七五七〜一八二七 )は、『無垢の歌』( 一七八九 )で、子どもの心のけがれなさや魅力をうたい、児童文学の誕生をうながす力となった。マーク・トウェイン( 一八三五〜一九一〇 )は、『ハックルベリ・フィンの冒険』( 一八八四 )で、宿無しハックの無邪気な目を通してアメリカ社会や人間全体を批判的にえがきだし、後のアメリカ文学のリアリズムに大きな影響を与えた。『たのしい川辺』ですでにのべたケネス・グレアムも『黄金時代』( 一八九五 )『夢の日々』( 一八九九 )で、理想の子ども像をエッセイ風にえがき、同時に、大人に対して子どもの内面を教え、大人の子どもに対する横暴をいましめた。
 子どもの純粋さを強調する作品は、ほとんどが大人や社会への批判を根底にもっている。その点でも、未明や譲治は、世界の児童文学の正しい流れに沿っている。だが、それ以後の発展があまり順調でなかったのは、未明・譲治の作品そのものと、後続作家たち双方に原因がある。
 未明と譲治が与えた影響は、大ざっぱにいって、児童文学における批判精神と、いわゆる童心といわれるものが必然的に想起させる詩であろう。
 たとえ、今の子どもにあまり読まれないとしても、未明の作品に強い批判精神が流れていることをうたがうものはいないだろう。彼の批判精神を直接受けつぎ、実作面でよりも理論の上で、それをより具体的なものにしたのが、プロレタリア児童文学運動だった。
 「本連盟は反資本主義的社会認識を有する児童文学作家より成り、真に児童を時代の悪弊より解放せんために生まる」(「日本児童文学大系」(3)、三一書房、一九五五、三四六ページ)と宣言して昭和三年に発足した各派合同の新興童話作家連盟とか、
 「労働者農民の子供は自らの童話を切望している。
  ストライキ、小作争議、専制政治に反抗する労働農民無産市民の革命的大衆動員、反帝国主義戦争の闘争、その波の中で『コンミューンの花』としての労働農民の子どもはおとなに負けない目ざましい活躍をした・・・・・・」
という書き出しではじまり
「作品について――
内容としたもの――a 圧迫するものへの反抗(3) b 資本家地主への反抗(4) c 団結の威力(2) d 明るい労働農民の未来への暗示(1) e 働く労働者農民の権利(3) f 帝国主義反対(1)(数字は作品数)」(同前、三四九ページ)
などと具体的に報告の出た「日本プロレタリア作家同盟創立大会における童話についての報告」などを読んでもわかるとおり、プロレタリア児童文学は、子どもに社会の矛盾を教え、階級意識にめざめさせ、やがて階級闘争の闘士になる子どもをそだてあげることを目標とした文学であった。
 私は、プロレタリア児童文学運動でこそ、子どものため長編小説が生まれるべきであったと思う。その階級意識、闘争を通じて得られるものなど、すべてが、小説を生むのに絶好であるはずだった。しかし、国家の弾圧と内部の思想的対立は、あっという間に、この運動をつぶしてしまった。
新しい分野を開拓するひまなどなかったのである。そして、そのひまのなさが、スローガンの羅列に似た観念的なうったえの作品しか生まなかった。だから、本来なら、童話のかせをはずして、長編のリアリズムを確立できたはずのこの運動も、やはり、童話のわく外に出ることができなかった。だが、
 「校長は健二のえりくびをつかまえると、ずるずる校長室へ引きずって行きました。
 ――きさまは、はくぼくをどっからぬすんできたんだ。
 ――拾ったんです。
 ――拾った、ばかをいえ、ぬすんだのにちがいない。きさまらびんぼう人はみんな、どろぼう だ。ぬすんだんだろう。
 ――うそだ。
 ――うそをいうか、このやろう。
 バカと健二の頭にゲンコツがとびました。
 ――うん、それから、なにをあそこへかいていたんだ。らく書きをしちゃいかん、校庭では運動 をしなくてはいかんと、いつもいっとるに、・・・・・・しかもああいうことをかいとるとはけしから ん。あれはなんだ、いえ。
 ――地主が、おとうさんをおまわりに、ひっぱらせたから、くやしいから地主にゲンコツをくれ たんです。
 ――なにお!きさまのおやじは社会主義にかぶれたんだ。そのせがれは、そのおやじにかぶれ るとはなにごとだ。社会主義は、村をさわがせるおにだ。おにを村から追い出すのは、国家の義 務だ。」(猪野省三『ドンドンやき』昭和三年、一九二八より)
などという作品を読むと、 これを童話とよぶことはむりであることがよくわかる。 これは、 ひじょうにへたな少年少女向きの小説である。譲治の作品が本質において童話でありながら、方法においてリアリスティックであったこと以上に、プロレタリア児童文学は、童話を内容的に変えてしまった。
 プロレタリア児童文学運動の成果の未熟さは、当然反発をよび、いわゆる芸術派といわれる人びとの運動がおこった。その一人である酒井朝彦(一八九四〜一九六九)は、一九二八年に同人誌「童話文学」に「童話の描く世界」というエッセイをのせ、その中で、
「童話を新芸術として生かすうえに大切なのはその作そのものが、リアリズムの精神の上に築か れているべきことである。」
といいながら、同時に、
 「童話が芸術として存在するには、幾多の要件が示されておらなければならぬ。まず第一にそれが全体として、一つの散文詩であるべきこと。しかも、その詩の基調を成すものは純真な童心の輝きである。」(前出「日本児童文学大系」(3)、三四五ページ)
とのべている。
 酒井朝彦は、故郷の木曽を舞台に、少年少女の生活を、ひなびた雰囲気をそこなわないようにアレンジしてえがいた作家で、会話、衣服、自然などがたしかにリアルにえがかれてはいるのだが、いろり端でおばあさんの話をきく子ども、山の中ではたらく子どもなど、とりたてて筋などない木曽子ども絵図のような作品は、やはり一種夢の世界であって、リアリズムのもつ迫真力がない。しかし、
「『にいちゃん。ほら、いいものあげるぞな。』
 そういって、みよちゃんは、ふところからみかんを一つとりだして、十吉のまえにさしだした のです。
『やあ、でっかいみかんだな。』
と、にっこりしながら、十吉がいう。
 こがね色にかがやいた、目もさめるばかりのうつくしいみかんでした。雪国の子どもにとって は、 みかんは、 ほんとにうれしいものでした。 ゆめのようなここちのする、 木の実でありまし た。
 十吉は、そのみかんを手にとったとき、ほんのりとしたあたたかみをかんじました。
 『ああ、いいにおいがする。』
 こがね色の実を、はなさきにあてながら、十吉はうっとりしたように、かるく目をつぶって、いうのでした。」(『ゆきむすめ』、講談社、世界童話文学全集16、一九五ページ)
といった世界には、安らぎと美と善意が充満していて捨てがたい。これが朝彦の「童心の輝き」なのかもしれない。彼は、童心というものを、愛と和と郷愁の世界と考えていたにちがいない。それは、未明の求めたみずみずしい精神のはたらきを持ちながら、それが過去にのみはたらいて、未明のはげしい批判を失った世界といえるだろう。そして、そのような世界をえがく作家が出たことは、やはり、時代からの逃避でもあったにちがいない。 
 とにかく、朝彦のえがいた世界は、郷愁を基礎に、子どもの新鮮な感受性がとらえた美と和と静の世界であり、そこに朝彦は芸術性を確信していたと考えられる。そして、その芸術性は、個性のちがいはあっても、未明や譲治が求めていたものと本質的にはおなじであった。時代が生んだ二つの形の「童話」、つまり、プロレタリア児童文学と芸術派童話は、未明の生みだした童話の二つの極を、それぞれ分けもったといえる。
テキストファイル化山本 実千代