『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

坪田譲治と同時期のリアリズム

 菅忠道著『日本の児童文学』からの引用にもあるように、大正末からリアリズム系列の児童文学が台頭するのだが、これらがみな童話とよばれ、事実内容的にも童話であったところに、日本の児童文学の特異さがある。リアリズム系統の作家で、この時期から今日に至るまで、現役でありつづけ、大きな影響を児童文学界に与えたのは、坪田譲治である。
 坪田譲治の文学は、すでに多くの人びとによって論じられているが、その歴史的な立場は、
 「大正期までの日本の児童文学は、説話的な作品が大部分を占めていた。そうした中で、千葉省三、有島武郎、島崎藤村などによって、自己の直接的体験を作品化する新しい手法が生まれ、とくに省三は、自己の少年時代の日常生活を牧歌的な抒情でうたいあげることによって、ヴィヴィッドな子ども像を展開させた。その流れは、プロレタリア児童文学の変質過程の中で生活童話に定着し、自己の直接的体験に加えて、自分の子どもや身近な子どもを観察し、その生態をとらえる素朴な作業から始まって、しだいに他人の体験あるいは自己の間接的体験を作品化のモチーフとする傾向が出てきた。
 坪田譲治の作品は、いわばその典型であり、総仕上げ的な位置にあるといってよい。正太・善太・三平の三兄弟は、譲治の三人の息子がモデルともいわれるが、我が子の把握を契機として、譲治は生きた子どもの造型に成功したのである。」(『日本児童文学案内』一三〇ページ)
 もっとも、譲治が「生きた子ども」を造型しえたかどうかについては、疑問を投げかける人もいないではない。イギリス児童文学の研究家、猪熊葉子氏は、
 「譲治はいわゆる童心主義の童話を評して、自分は『児童を理想化した童心』の持主ではない、といっているが、既にみてきたように、彼にあっても、子どもは大人の理想化した童心』の持主ではない、といっているが、既にみてきたように、彼にあっても、子どもは大人の理想の存在であることに変りなく、作品の方法こそリアルであるけれども、やはり童心主義者の一人であったのだ。」(『児童文学概論』、牧書店、一八三ページ)
と、譲治のいわゆる生きた子どもの質を論じている。
 わたしも、ほぼ、この説に同調するのだが、その判断の方法は、児童文学者瀬田貞二氏が、すでにあげた『子どもと文学』の中の坪田譲治論で提出している。瀬田氏は、『桐の木』『笛』『お化けの世界』『カタツムリ』等の大人向きの作品が、それぞれ『正太とハチ』『引越』『ライオン』『でんでん虫』という子ども向きの作品に変わっているところから、譲治文学を説きはじめる。これらは、みな、結末にある子どもの死がなくなって、子ども向きの作品に書き改められ、つまらなくなっている。つまり、作家として出発したとき、譲治のテーマは死の問題であったのだが、大人の小説としてすぐれていても、子どもの文学に死などを中心としたものはふさわしくない、と批判したのである。
 そこで、まず『カタツムリ』のあらすじを追ってみよう。

 美代ちゃんの病気がよくないので、おかあさんがお医者さんに行ったるすの間、正太は美代ちゃんに舌切雀の話をしてやっている。そこへ、善太と三平が、フナがいるからとりにいこうとかけこんでくる。正太は、美代ちゃんに、フナとってきてやろうかというのだが、正太たちがいなくなったら、大きな家でひとりになってしまう美代ちゃんは、首をたてにふらない。そこで、正太はデンデン虫をとってきて、美代ちゃんの枕もとのおぼんの上におき、「つの出せ、やり出せ」とうたってあそんでやる。そして、善太、三平とフナとりに行く。しかし、美代ちゃんが気になって、途中で泣き声がきこえるかどうか、ききにいったりする。ところが、フナのいるところにいくと、網を忘れたことに気づき。善太をとりにやらせる。すると、美代ちゃんがないている。善太があわてて家に入っていく。すると、デンデン虫が、フトンの上まではってきてしまったので、美代ちゃんは床の間までにげて泣いている。
 ここまでの筋は、『カタツムリ』も『でんでん虫』もおなじである。だが、『でんでん虫』はここで終わっているのに、『カタツムリ』には、つぎのような結びがつく。

 「ところが、それから一日ばかりあとでした。かわいそうなことに、美代チャンは、とうとうなくなりました。北のほうの丘の上に木のお墓が立ちました。松山美代子墓と、ふとい字で書いてありました。
 ある日、正太たちが、おかあさんといっしょに、そこにおまいりして見ますと、そのまえに立ててあるサカキの枝の上に、その葉のあいだに、一匹のカタツムリがとまっていました。正太はそれを取ると、近くの墓石の上に、力いっぱい投げつけました。・・・・・・
 それからまた何日かたちました。秋のことであります。正太たちはまた、美代チャンのお墓におまいりしました。その時、その丘の上から、遠くにつらなる一列の山やまをながめておりますと、ふと、その山やまのあいだの谷間に、砂のくずれたところらしい、白いところが見えました。その白いところをながめていると、それがまるで、カタツムリがつのを立てているところのように見えました。すると、そのそばに、すわってそれをながめている、ひとりの子どものようなものが見えました。正太は久しくそれをながめつづけ、
 『美代チャンも、あそこへいって、もうカタツムリと遊んでいる。』
と、そんなことを考えました。」(『お化けの世界』、坪田譲治童話全集第十一巻、岩崎書店、82ページ)

 ここには、二通りの子どもがえがかれている。死んでしまった子どもと生きている子どもである。死んだ子どもは、カタツムリをもこわがる段階だから、まだ外界とほとんど触れあわない、つまり常識が内面に侵入してこない年令の子どもである。そして、末の女の子だから、可愛らしさ、無邪気のかたまりのような立場にある。その子が、はかなくなってしまう。そして、その子の墓参りをした兄は、山腹の、カタツムリと女の子らしく見える地形を見て、死んだ妹があそこで遊んでいると思う。兄の心理は、子どもの内面の具体的な表現であり、死んだ妹は<子ども>の象徴的表現である。この二つから、わたしたちには、譲治が、子どもを素朴ですなおで美しく汚れないものとしてとらえていることがわかる。<子ども>は、そして、消えてしまいやすい。それだけに、この作品からは、譲治の子どもへの強烈なあこがれを感じとることができる。譲治の文学はこの<子ども>を追いつづけているのだと思う。そして、<子ども>のもろさ、はかなさは『子供の四季』(昭和一三、一九三八)に至って消え、水藤春夫氏が「子供だけがもっている生命力、大胆と率直、それをひしひしと感じ」させると指摘する(岩崎版全集第十二巻の巻末解説)ものに変貌していくのだが、この変貌は根本的にやはり変わっていない。なぜなら、『子供の四季』においても、二年前の『風の中の子供』にしても、それぞれ、長編、中編の小説でありながら、子どもは、環境との関係の中で成長していかないからである。両作品とも、会社のっとりという大人の社会のみにくい問題をあつかいながら、子どもは、それに影響されていないように見える。そして、それが当然なのかもしれない。両作品において、子どもは、大人のみにくさをうつすかがみとして、また、みにくさと対立する清潔で純粋なものとしてえがかれているからである。つまり、譲治の子どもは、生き生きとえがかれてはいるが、それは、場面ごとにそうなのであって、物語全体を通じて成長していく、そのリアリティがない。どこか抽象化されている。譲治は、子どもを写実的にえがくことを通じて、理想の子ども像をつかもうとしていたのである。理想の子ども像は、当然変化するものではない。譲治は、それをえがくのに、短編小説の形をとらざるをえなかったし、長編小説では、子どもを変化させえなかった。そして、子ども向きの作品では、写実的でありながら、テーマが鮮明でない、スケッチ風のものになった。リテラリイ・フェアリー・テイルズとよぶには空想性がまったくなく、また、リアリズムとよぶには、どこか主人公が抽象的である彼の子どものための作品は、結局、童話とよぶ以外しかたのないものであったろう。童話という言葉の変貌である。だから、譲治の文学を純粋な意味で、リアリズムということはできないと思うし、また、完全に子どものための文学ということもできないであろう。
 だが、子どものための文学でないとか、あるとかいうことが、どれほどの意味をもつだろうか?譲治の文学は、直接時代の批判などはしないが、子どもに視点をすえることによって、子どもを通じて時代を鋭敏にとらえているし、そのたしかな描写力を駆使して、人間の姿をたしかにつかんでいる。すぐれたものの多くは大人にふさわしいかもしれない。だが、子どもが読んでいっこうさしつかえはない。多数の子どもは読まないかもしれないが、その魅力にとりつかれる子どもたちも、かならずいるにちがいない。譲治の作品は、大人が読もうと子どもが読もうと、ひじょうに質の高い文学であることには、かわりない。
テキストファイル化山口雅子