『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

20世紀イギリスのフェアリー・テイルズ

 20世紀のフェアリー・テイルズの幕は、3人の大作家、ジェイムズ・バリ(1860〜1937)、ラディアード・キップリング(1865〜1936)、ビアトリクス・ポッター(1866〜1943)によって切っておとされた。平穏なエドワード時代だったとはいっても、その質において、これほどすぐれた作家がまとまって出たことは、この分野ではその後たえてない。その意味で、世紀初頭は、リテラリイ・フェアリー・テイルズの黄金時代であった。
 バリの『ピーター・パン』は、はじめ『白い小鳥』(1902)という、ロンドンの若い男女の恋愛と結婚と子どもの成長を軽妙にえがいた大人向きの小説にあらわれたものである。成長しない永遠の子どものイメージは、それから2年後に劇化され、やがて1911年に『ピーター・パンとウェンディ』になった。今日、絵本や映画で、ピーター・パンといわれるのはこれである。『白い小鳥』にあらわれた原型のピーター・パンは、1906年に『ケンジントン公園のピーター・パン』にまとめられた。
 ピーター・パンの国=ないない島が子どもの心、特にイギリスの男の子の心をえがいたものであることは、もうだれでも知っているであろう。そこには、当時の男の子たちの心をとらえた数々の冒険が待っている。インディアンがいるし、海賊がいる。礁湖には人魚がいる。そして、親からにげだした子どもたちは、ロビンソン・クルーソーよろしく、自分たちだけでくらして、毎日ただ胸おどる冒険のくらしをたのしんでいる。
あまりに評判の高いものの税金のように、今もなお、イギリスの大人たちは、ピーター・パンをうたがわしげにながめて、これが果たして古典でありうるかどうかを論議している。たしかに、子どもの内面を強烈なノスタルジアをもって昇華させたこの作品には、センチメンタルな影がつきまとうし、大人からは、悪ふざけのような思いつきもちらつく。しかし、子どもは、ピーター・パンの大冒険に夢中になり、うさんくさいものに気づかない。そして気づいたときには、もうピーター・パンを卒業している。
 『ピーター・パン』をファンタシーではなく、フェアリー・テイルに分けることを疑問に思う人も多いかもしれないし、また、分けること自体大した意味はないかもしれない。
 登場人物は、妖精のティンカー・ベル以外、だれひとり昔話の人物たちではない。主人公ピーター・パンからして、バリの天才的着想の産物であり、敵役の海賊ジャス・フックもきわめて印象深い喜劇的人物である。めざまし時計をのみこんだワニも新鮮な想像力の成果である。しかし、わたしには、読者である子どもたちにとって、彼らは、赤ずきんや巨人ごろしのジャック同様な主人公に見えると思うのである。ピーターは空想の国のチャンピオンであって、あらゆることを堂々と成しとげる。ピーターに不可能はない。大人になることはできないが、これは、自ら拒否しているのであって不可能事ではない。ピーターは、あらゆる不思議なことのおこる架空の世界で自由自在に活躍する昔話の英雄とかわらない。そして、登場人物全部も、ファンタシーの人物のように立体的にというより、フェアリー・テイルズの人物に近い描写をされている。
「アリス」をちぢめた本をつくろうとはだれひとり考えないし、それは無意味なことがわかっている。しかし、『ピーター・パン』は、さまざまな形でちぢめられている。それはよいことではないが、しかし、それでも、本来の魅力を失わないのは、この作品に昔話的要素がつよいことを示している。美しい幻想性と大冒険の世界である『ピーター・パン』は、大人たちの批評をよそに、今や子どもの世界に完全に定着したように見える。
バリと文名をきそいあったノーベル文学賞作家ラディアード・キップリングは、現在、詩・小説でよりも、子どものためにのこした仕事で高く評価され、その値打ちは年とともに光をますように思われる。彼は子どものために多くの分野ですぐれた仕事をのこしている。その文名を一躍高からしめた『ジャングル・ブック』(1894)と『セカンド・ジャングル・ブック』(1895)は動物文学とロマンスに新鮮な刺激を与えたし、『ストーキーと仲間たち』(1899)では、類型化した学校物語を生きたものに改良した。妖精パックを舞台まわしの道具につかった『プークの丘の妖精パック』(1906)と『ごほうびと妖精』(1910)は、イギリスの歴史を物語化したものだが、一口にいえば時代を感覚的にとらえる方法をうちたて、現代作家ローズマリ・サトクリフをはじめ、多くの歴史小説作家に大きな影響を与えた。
 キップリングは、リテラリイ・フェアリー・テイルズの分野には、一般に『なぜなぜ物語』(1901)で知られる作品をのこした。これは、昔話にある一つの型、たとえばコマドリの胸はなぜ赤いといったたぐいの話を、幼ないわが子に物語る形式の本で、『ぞうのはなはなぜ長い』や『ラクダにはなぜこぶが二つある』など、今でも愛読されている。なぜに対する新鮮な着想と、子どもの興味をよく知っている流れるような名文とで、この種のものの白眉である。バリやミルンにくらべて、わが国であまりよまれないのは、いささかおしゃべりに感じられる文体や、精密なさし絵が古めかしく思われるためだろうか。
 ビアトリクス・ポッターは、絵本作家なので、この本に入れるのは、いささか場ちがいかもしれないが、彼女の絵と物語が、幼児のためのリテラリイ・フェアリー・テイルズであることはまちがいない。
1866年に豊かな弁護士のむすめとして生まれたポッターは1943年にこの世を去るまで、しずかで平凡な一生を送った人だったが、するどい観察力とゆたかな感受性にめぐまれて、内面的には豊かな生活を送った人であった。
1893年に、ひとりの子どもの友人に、絵入りの物語を手紙として送ったことから、彼女の三十点近い絵本の創作がはじまった。いたずらウサギのピーターが、おかあさんのいいつけを守らず、近くの農場へしのびこみ、野菜をぬすみぐいしたあげく、農場主にさんざん追いかけられて、命からがらにげ帰る『ピーターうさぎのおはなし』をはじめとする彼女の物語は、一字もむだがないと評されるほど簡潔で要領を得ている上にリズミカルである。そして、絵は、ウサギも、カエルも、アヒルも、ネコも、擬人化されているにもかかわらず、それぞれの特性を失わず、しかも夢にみちている。
 彼女の物語の事件は、主人公の生物的特徴から必然的に生まれている。アヒルのジェミマは、生んだたまごを自分であたためたいと思う。ところが、お百姓さんは、ニワトリにだかせてしまう。ジェミマは、そこで、安心してたまごをかえせる場所をさがしにでかけ、キツネにだまされそうになる。しかし、かしこい犬コリーのたすけで、ぶじたまごをかえすことができる。
ポッターは、動物や鳥たちの生態に忠実だから、ときには、それらと人間との関係もあからさまにえがく。ピーターうさぎのおとうさんは、農場へ無断侵入したために、シチューになってしまうのである。こうした作家の態度は、幼児を対等に見て話しかけていることをはっきりと物語っている。ポッターは、幼児に対して、過剰な配慮をせず、知らせるべきことははっきり知らせながらも、そして、自然の法則の不必要な歪曲をしなくても、楽しい夢にみちた物語を送ることができることを、わたしたちに示している。彼女の絵を見た人は、「子どもにこそ、最高のものを送るべきである」という考えを実感するにちがいない。
 ポッターの模倣のようなしごとから出発し、地味ながらもきらめくような独創性のある現代のフェアリー・テイルズを子どもたちに送ったのが、アリソン・アトリー(1884〜)である。
アトリーが、子どものための本を出しはじめたのは、『リスと野ウサギと灰色の小ウサギ』というシリーズからだった。これは、アトリーが物語を、マーガレット・テンペストが絵をかき、ポッターの絵本より、やや大きめな絵物語の本として出版されたのだが、色、構図、本の型など、すべてがポッターの二番せんじで、ポッターには遠く及ばなかった。しかし『ふつうでない小ウサギの冒険』(1937)と『四ひきのブタとあなぐまのブロックさん』(1939)が出版された頃から、彼女独自の世界がひらける。
『ふつうでない小ウサギの冒険』は、チムというウサギを主人公にした連作物語で、わが国では、数多い話の中からえらんで『チム・ラビットのぼうけん』『チム・ラビットのおともだち』の二冊が出ている。また、四ひきのブタの方は、『サム・ピッグだいかつやく』『サム・ピッグおおそうどう』が出版されている。
 『チム・ラビット』も『サム・ピッグ』も擬人化された動物の話だが、動物の生態への忠実さはポッターの作品ほどではなく、むしろ『たのしい川辺』の方に近い。そして、ウサギもブタも、ともに幼児そのものをえがこうとしたと考えられる。
チム・ラビットは、ある日野原ではさみをみつける。すると、おとうさんがそれで草を刈ってみせる。チムは翌日毛布をちょん切り、カーテンをずたずたに切り、つづいて自分の毛を切って、ネズミのようになって、そのため、かぜをひいてしまう。そこでおかあさんは、上着をつくってやる。チムは、ほんとうの毛が長くなるまで、ほかの動物たちにさんざんからかわれる。
サム・ピッグは、つぎだらけのズボンをはいていて、つぎには、テントウムシ、蜜蜂、蜂の巣、カエル、クワガタ虫、どんぐり、石などがはいっている。ねえさんのアン・ピッグは、いばらの茂みにひっかかった羊毛をたんねんに集めて、あたらしいズボンをつくってやる。しかし、毎日あそびまわっては、かぎざきばかりつくっているサムのズボンは、すぐに、またつぎあてだらけになり、今度は白ネズミの一家までがくらすようになってしまう。
 ウサギやブタをつかって、読者である幼児や低学年生そのものをえがいたのは、アニミスティックな段階にある読者への配慮があることは当然であるが、アトリーの場合は、主人公たちの活躍する場所、つまり自然のゆたかな田園をかくことに主眼があるためとも考えられるのである。サム・ピッグは、かかしと友だちになって、何日かかわりをつとめてやるのだが、その出会いは、つぎのように描写される。
「ある日のこと、いつものさんぽに 風のよびこ山へ のぼったサムが、てっぺんの 見はりの木の ところに立つと、見なれないものが、目にとまりました。
 大麦や 小麦のはたけが、みどり色や ちゃ色に わかれて見えました。牧草地も、日足ののびた日光が かこいごしに てりつけるので、かすんで見えて、とてもきれいでした。くぼ地には、くるみの木や りんごえんのある のうじょうが 見えました。ところが、まるで けしきの中に とけこんだような人が、ひとり立っていたのです。今まで 見たことのない その人は、麦ばたけのまん中に 立っていましたが、どうもおかしいのは、その人が、ちっともうごかないのです。すこしもうごかず、いつもおなじところに じっと立っています。
 たしかに、ほそいうでを ふっていますし、うわぎは 風にはたはたしています。おんぼろぼうしが ゆれていますし、まるいかおも、空を見あげて、小鳥や 雲や 日の光を じっと見ているようです。」(『サム・ピッグだいかつやく』筆者訳、童心社、120〜121ページ)
アトリーの作品のほとんどは、日の光・川・草・木・月・星など、自然のさまざまな顔をうつしだしている。『ジョン・バーリコン』(1948)という作品集の中に『リーおばさんの笛』というのがある。村にやってきたジプシーのおばあさんから、二人の子どもが古い箱を一つもらう。そして、昼間のった回転木馬にのりたいと思いながら、笛をならすと、木馬たちが生命をえてうごき出し、月夜の一夜、子どもたちをのせて、あそびまわってくれる。その魔法の笛というのが、古代ローマ時代の笛なのである。
 アトリーは、イングランドの自然と歴史が与えてくれる恵みを、主としてバークシャーの大地からくみとり、それを読者に伝えようとした。彼女のファアリー・テイルズは、物語よりも、物語の運びの中で伝えられる、豊かな自然の美・驚異・生命力・自然の包容力などをえがこうとしたといってよいだろう。彼女には、『月光と魔女』(1932)『くつ屋の店』(1950)『ねる前のおはなし』(1936)など、たくさんの童話集があるが、1957年に、傑作集ともいうべきものが『ポケットの中の魔法』という題でまとめられた。彼女の作品にも『クマのプーさん』同様に時代からの逃避が底流としてあることはあきらかである。

 エリナー・ファージョン(1882〜1965)も、二十年代から本格的な活動をはじめたフェアリー・テイルズの書き手である。
書物がたくさんあって、芸術家的雰囲気のあふれる家庭にそだったファージョンは、早くから物語・詩・劇などを書いたが、出版は1916年の『ロンドンの童謡』1919年の『子どもの歌あそび』からであった。散文の物語は1921年の『リンゴ畑のマーチン・ピピン』からで、以降『万華鏡』(1929)『年とったばあやのお話かご』(1931)『イタリアののぞきめがね』(1934)『町かどのジム』(1934)『ヒナギク咲く野のマーチン・ピピン』(1937)ほかが続々と出版された。もっとも有名なのは、長年書いたものの中から、自選した作品集『ムギと王さま』(1955、原名<小さな書庫>)で、これは、イギリスの児童文学賞カーネギー賞と国際アンデルセン大賞を受賞した。
 ファージョンの作品は、短いものをならべる形式が多く、それらをつなぐために、話の語り手がいる。『リンゴ畑のマーチン・ピピン』の七つの恋物語を語るのは遊歴詩人マーチン・ピピンだし、『年とったばあやのお話かご』では、時と同じくらい年とっているばあやが、短いお話を子どもたちにしてきかせる。『町かどのジム』は、老水夫ジムが少年デリーに、老いた船乗り流のほら話を折にふれて語るのである。それらの小さな話が、昔話やいい古されたほら話や地方の伝説などを下じきにしていることはたしかであろう。
 『町かどのジム』に「九ばんめの波」という話がある。ジムがゆり木馬号で大西洋を航海しているとき、大波の中で一匹のタラをつりあげる。タラは、波が大きすぎたため、酔ってしまっている。ジムは、タラに、この船長だろうとお世辞をいわれてタラがすきになり、気分がよくなるように、いろいろと世話をしてやる。そのうち、船は大波をくらって危くなる。そこで、波がくるたびにサラダ油を流して波をしずめ、八つの波まではのり切るが、九つめのいちばん大きな波がきたときには、油が切れている。すると、タラがくさい肝油を肝臓から出してくれる。ゆり木馬号は、そのくさい肝油のおかげでたすかる。九番目の波は、肝油をまかれると、あわててにげていったからである。九番目の波がいちばん大きく、また大波には油をまくというのは、経験にもとづく言い伝えであるのだろう。これを使った話は多い。その言い伝えをもとにファージョンは、女らしいやわらかさと、のんびりしたテンポで、ほら話をつくったのである。
 だが、彼女の文学の特徴がもっともよくあらわれているのは、1955年の『ムギと王さま』であろう。表題になった『ムギと王さま』は小さいとき神童のほまれが高かったにもかかわらず、十歳のときふいにはたらかなくなって、畑にすわりこんで無為に時をすごすようになった一人の少年がエジプト王とムギのことを語るという形ではじまっている。
 その少年が、ある日ムギ畑にいると、エジプト王がやってくる。王は、少年が満足そうなのを見て腹をたて、ムギ畑をやいてしまう。しかし、ごく少しのこったムギを少年がまくと、翌年ムギはのびる。その頃エジプト王は死ぬ。そして、少年は、偶然のつてを通じて、王がやいた畑にまた育ったムギを、王の棺に入れてやる。何千年か時がたって、王の墓があばかれたとき、ムギはまだ死んでいない。王は「ムギより王の命はながい!」とさけんだのだったけれど。
 二十数編の話は、みな、この話同様な意味を含んでいる。それは、昔話ほど冷厳な客観性はなく、アンデルセンほど広く深くするどくはなくて、安定した常識に富んだものである。しかし、わかりやすく、やわらかな雰囲気にみちていて、全体に詩情が流れている彼女の作品は、やはり名手の傑作としかいいようがない。
 鋭さ、きびしさという点では、ジェイムズ・リーヴズ(1909〜)が好例であろう。リーヴズは本来、第二次大戦後の一番手の詩人であり、多くの詩を発表しているが、子どものためにも詩と散文で活躍している。子どものための詩集には『さまよう月』(1946)『ライラックの中のつぐみ』(1952)などがあり、現存する子どものための詩人としては第一人者といわれている。リテラリイ・フェアリー・テイルズにも数冊の本があるが、1962年の『水兵ランビローとブリタニア』が、彼の作風を代表している。
 これは、ガラスのびんにはいっている水夫と少女の人形の恋物語である。水兵ランビローは、べつのびんの中の少女ブリタニアを恋するが、びんは掃除した人間の置き方で、ときどき向きがかわるので、毎日顔を見ることができず、よろこんだり、失望したりして日を送っている。それは、ブリタニアも同様である。ところがある日、偶然に、ランビローのびんがおちて割れ、ランビローは自由になる。ランビローは、望遠鏡をふるって、ブリタニアのびんをこわそうとして、気を失う。気づいたとき、ランビローは、またびんの中にはいっている。だが、ランビローもブリタニアも、いつか会える日をたのしみに、また毎日びんごしに見つめあう。
 リーヴズは、この小さなお人形の恋物語に、愛と人間性と現代のすべてを盛りこんだということができる。アンデルセンの作品をよんだ人なら、すぐに『しっかり者のスズの兵隊』を思いうかべるだろう。そして、火の中でとけて、ハートの形になったスズの兵隊と、ガラスの壁をへだてて、永久に見つめつづける水兵ランビローとの間に、時代のちがいを感じるにちがいない。
 リーヴズは、『ドン・キホーテ』やグリム、イギリス昔話などの再話や抄訳を手がけて、昔話の形式と精神を正しく把握している。だから、彼のフェアリー・テイルズは、昔話そのもののような型をそなえ、その上、現代における愛、孤独、反権力その他の問題をテーマに結晶させている。リーヴズは、現代イギリスの、正統的なアンデルセンの後継者ということができる。
 イギリスの創作されたフェアリー・テイルズは、もちろん、時代に深くかかわってはいるが、やはり、ファンタシーにくらべると、直接性がうすい。だから、それだけかえって、時代を超えた人間存在の意義、人間の本質、社会のあるべき姿などに思いをいたし、自由にそれらを追究し、自由な形で表現することができる。その想像力は、ファンタシーの具体性に制約されることがないから、より自由奔放で無限でありうる。だから、メルヘンとかリテラリイ・フェアリー・テイルズとかいわれる分野は、たしかに時代や民族をこえたものをもっているのだが、イギリスだけを見て、結論づけることは、いささか早急といわねばならない。諸外国、たとえば、アメリカやドイツのリテラリイ・フェアリー・テイルズは、イギリスと質的にちがっているからである。