『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)


ほろびと復活と永遠――『ナルニア国物語』と『エリダー』

 第二次世界大戦は、ふたたび児童文学を停滞させた。空想の物語も、その期間、二流品は出ても一流品は出なかった。だが、戦後、児童文学は世界のものとなった。従来、ほとんどイギリス・アメリカのものだったいわゆる傑作がドイツ、スウェーデン、オランダ、イタリア、フランスなどからもつぎつぎ生まれるようになり、交流もまた盛んになった。そうした中で、イギリスの児童文学もまた大きく変わった。一口にいえば、全体にリアリティがつよくなったのである。リアルな作品は、さらに現実的・今日的になり、イマジナティブな作品にも、現実世界が戦前以上に濃い影をおとしてきている。たとえば、五十年代の代表作家であるC・S・ルイス(一八九八〜一九六三)の『ナルニア国物語』と、六十年代の新しい作家アラン・ガーナーによる『エリダー』をくらべると、そうしたことがはっきりとわかる。
 『ナルニア国物語』は一九五○年の『ライオンと魔女』にはじまり、一九五六年の『最後のたたかい』でおわる七部作、『エリダー』は、一九六五年の作品であるが、共通しているのは、現代の子どもが別世界にはいり、別世界の善と悪や、光とやみのたたかいにまきこまれてたたかうところである。ちがう想像力をもつ作家たちだから、人物、物語の設定その他に大きなちがいがあるのは当然だが、それだけでなく、五十年代と六十年代のちがいもはっきりとあらわれていると思う。
 現代の子どもが、別世界といかにしてつながるかは、各作家がもっとも苦心するところであり、読者にはもっとも興味ある点である。
 『ライオンと魔女』は、時を第一次大戦中、場所をある片いなかの大きく古い屋敷にしている。ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの四人きょうだいが、空襲をさけて、その屋敷に疎開していたある日、末っ子のルーシィが、毛皮の外套のたくさんさがっている大きな衣装とだなに入り込み、奥をさぐると、やわらかい毛皮にではなく、手をちくちく刺す木の枝のようなものにふれる。そしてさらに進んでいくと、おどろいたことに、雪のふる夜の森に出てしまうのである。森の中には、あかりがついているので、そこへ行ってみると、街灯が一本ぽつんと立っている。
 『エリダー』の異境への入口は、都市のスラム街整理でくずされようとしている、マンチェスターの古ぼけた教会である。ニック、ヘレン、ディヴィッド、ローランドの四人がこの教会を探検するうち、末っ子のローランドが老人のバイオリンひきに会い、教会の中のあるドアをあけると、エリダーの国にはいる。
 「しかし、どこを見わたしても、ただ荒涼としているだけだ。平原、尾根、森、海、すべてが生気を失っていた。その色どりさえ、光を失っており、ローランドの見るものすべて、じぶんのからだも、服も、まるで写真でも見ているように、灰色をしているのだった。
 三つの城。
 こんどは右手のほうを見た。そっちはまっ暗で、かみなりでもなりだしそうに、見通しがきかないのだ。すると――かみなりがやってきて、そして去り、またやってきた。
 明りだ!丘の上に。ほんとうにかすかな――まるで――一本の――ロウソクの――ような――消えかかっているが――たしかに塔だ!黄金の塔だ!」(龍口直太郎訳、評論社、四七ページ)
 ところでルーシィの迷いこんだ国は獅子の王アスランが支配するナルニア国なのだが、ルーシィが入ったときは、白い魔女の支配下にあって長い冬になっている。四人のきょうだいは、アスランに忠実な住人たちと力をあわせ、白い魔女の支配をやぶって春をよぶ。四人きょうだいは、ナルニアの王と女王になってよく国をおさめ、やがて現世にもどる。だが、この国も、やがて、住民の間の信頼とアスランへの信仰がくずれ、ナルニアの永年の敵であったカロールメン国との最後のたたかいの末に、ほろび去ってしまう。ほろびの場面は、七冊のしめくくりとして圧巻といえる。まず、時の巨人が、神アスランのよびかけに応じて立ちあがって角笛を吹くと、空の星たちがいっせいに落ちはじめて全天が暗黒になる。住むものがいっせいに国をにげだす。あとにのこった竜やトカゲたちが、国中をあらし、一木一草もなくしてしまう。そこへ海水がおしよせてきて、国中は一面の水になる。やがて、夜があけると、太陽がのぼる。
 「太陽は、ふつうの三倍、あるいは二十倍の大きさで、とてもどんよりと黒ずんで赤く光っていました。その光が、大きな時の翁の上におちかかりますと、時の巨人も、赤くそまりました。それに太陽の照りかえしで、なぎさのないはてしない水のただまんまんとひろがる面が、血のように赤くなりました。
 そのうちに月がのぼりましたが、まるでちがう方角にあたる太陽のすぐそばにあがったのです。月もまた赤く見えました。そして月があらわれると、日は、ひげのような、へびのような、大きくうねる黒っぽい紅の炎を、月へなげかけました。長いうでで月をひきよせようとするタコのようでした。そしてたぶん、うまくひきよせたのでしょう。ともかく月が、日の方へ、はじめはゆっくりと、そのうちだんだんと早く、ついに太陽の長い炎が、月のまわりをなめ、日と月がからまって、もえる石炭のような一つの大きな球体になりました。その炎のかたまりが、いくつも球体から海に落ちて、蒸気の雲がたちあがりました。」(『最後のたたかい』瀬田貞二訳、岩波書店、二四一ページ)
 だが、ナルニアは死なない。今までくらし、たたかい、維持してきたナルニアは、影の国であって、真のナルニアはべつにある。結局、ルイスはそれを読者に伝えるために七冊の大アレゴリーをかいたのである。彼は、前半生の魂の遍歴を自叙伝にして、真の魂のよろこびをキリスト教への帰依としているが、「ナルニア国」は、その魂の遍歴の物語化ということができる。
 五十年代という時代から見ると、この作品には、多くの警告が含まれている。ナルニア建国を語る『魔術師のおい』(一九五五)にあらわれる廃墟の国チャーンの状景は、人間の近い未来への警鐘であろうし、白い魔女や武の国カロールメンなども、その暗示するところは、容易に指摘することもできよう。だが、読者にとって、ナルニアは、どこかにある別の世界であり、そこでおこったことは、この地上でありうることにとどまる。そして、人間には永遠がある。ナルニアの物語には、人間の未来への確信がある。そして、それが五十年代の時代精神だったと、わたしは考えている。
 『ナルニア国物語』は、日本の子どもの愛読書になっている。それは、素材の特異さ、冒険物語作者としての才能、子どもの興味の適確な把握などにもよるが、根本的な楽天性もあずかって力があるのではないかと思う。未来への確信と希望が、夢の国の大冒険といったのびやかさを生みだしているにちがいない。もっとも、子どもたちは、自分たちとおなじようなきょうだい四人が一国の王になることにひかれているのかもしれない。それは大きな欲望充足だからである。批評家のあるものは、この変身だけが大きな欠点だといっているのだけれど。
 『ナルニア国物語』にくらべ、『エリダー』は、最初から悲劇的だ。エリダーの輝きは人びとが気づかず安楽をむさぼるうち、戦争・包囲・うらぎりによって、あっという間に闇にのみこまれる。エリダーをすくう道は、エリダーの四つの宝を守りぬき、一角獣がうたうことによってのみえられる。四人の子どもは、その宝――槍、剣、大釜、石を守って、現実にもちかえる。現実には、その四つの宝は、鉄の手すりの一部、教会のかなめ石、木刀、ひびわれた古いカップでしかない。彼らは、自分たちの家に、そのがらくたを保管する。すると、影のようなものたちが、それをとりにくる。
 『エリダー』の国の光とやみのたたかいは、ナルニアにおけるたたかいとちがって、直接子どもたちに影響している。そして、エリダーの守り手マルブロンは、もしエリダーが完全にやみにつつまれたら、それは、なにかの形で、地上の世界にも影響するという。エリダーのたたかいと、累卵のあやうさを、わたしたちは、日常生活の中では気づかれずに進んでいる人類滅亡への歩みと考えることもできるだろう。作者の目には、この世界が、やみにのみこまれようとする黄金の塔として、うつっているにちがいない。
 古い伝説の世界を現代によみがえらせ、幻想性の高い一種の気迫にみちたこの空想の物語には、とにかく、現実的な切迫感がある。それは、イギリスのファンタジーの歴史を通じて、六十年代にしか感じられないものである。『エリダー』も、結局は、宝石が守りぬかれ、一角獣が美しい歌をうたうのだが、そこにはもはや、めでたしめでたしで終わるフェアリー・テイルズのパターンはない。人間の未来への絶対の確信も感じとれない。感じられるのは、必死の努力である。そして、そこがこの作品を緊張度の高い迫力ある傑作にしている。

 イギリスのファンタジーの多くは、このように時代に対して敏感な、なまなましい文学である。一般に、ファンタジー、あるいはファンタジーという語感は、空想的、幻想的、美的、詩的などの言葉を連想させるし、事実多くの作品がそれらを特徴としてもっているが、本質的に、ひじょうにリアルなものであることを、おぼえておく必要がある。だから、空想の世界をあつかっているとはいえ、ほとんどのすぐれた作品は、リアリスティックな作品よりはるかにリアリスティックである。元来、イギリスには、文学用語の「リアリズム」に完全にあてはまる作品がほとんど出ていない。あるのは『宝島』的なロマンス系列のものか、女子・幼児用の家庭よみものの発展したものであった。そして、第二次大戦後ようやく質量ともに向上してきているのだが、今日にいたるまで、この分野では他国、たとえばドイツやアメリカに一日の長がある。その一つの原因は、案外、ファンタジーにあるのかもしれない。ファンタジーは、折目正しくかたくるしい日常からの逃避にもなり、また一方では、現実的な課題を表現する強力な手段ともなる。ファンタジーは、イギリス人の気質にもっともよく合った分野なのであろう。ファンタジーというのは、かつて政治と宗教が妥協してイギリス国教を生んだように、フェアリー・テイルズとリアリズムの妥協の産物とも考えられるのである。
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