『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

社会主義的な時期の空想−『メアリー・ポピンズ』と『ホビット』

 三十年代は、国際的な激動の時期であった。イギリスでは、経済不況のために失業者が増大して社会不安をひきおこし、ドイツではナチスが台頭し、日本は満州事変を起こして戦争の泥沼に足をふみ入れはじめていた。不況やスペイン内乱で、共産主義者、社会主義者たちはたたかっていた。文学でも、社会主義思想のつよい作品がつぎつぎ生まれた。一般の関心も、現実問題にむかっていた。子どもの文学も、敏感に時代をうつしていた。三十年代を作家で表現するなら、それは、アーサー・ランサムやケストナーやローラ・インガルズ・ワイルダーの時代であり、日本では坪田譲治の時代であった。そして、多分、第一次大戦のいたでからようやく回復した作家・出版社等の力もあずかって、子どもの文学が力づよく新しいものを生みだした十年でもあった。だから、数はリアルなものにくらべてすくないが、質の高いファンタシーが生まれている。その代表的なものは、パメラ・トラヴァースの『メアリー・ポピンズ』と、J・R・R・トーキン(一八九二〜)の『ホビットの冒険』であろう。
 『メアリー・ポピンズ』は奇妙な話である。女中さんのいなくなった桜町通十七番地のバンクスさんの家に、ある日の夕方、オランダ人形のような格好で、はなの先がちょっと空を向いている女の人が、東の風といっしょにふらりとあらわれる。そして、その人は、バンクス夫人に案内されて二階へあがるのだが、
「しかし、ひどく変わったやり方でした。大きなバッグを両手にかかえると、階段の手すりの上を、上のほうへ、すうっと、すべりあがったのです。そして、おかあさまといっしょに二階につきました。」(林容吉訳、岩波少年文庫、一三ページ)
 そして、彼女のもっているジュウタンでつくったカバンがまた奇妙である。ジェインがあけてみると、中はからっぽ。ところが、彼女、メアリー・ポピンズは、
「からっぽのバッグに手を入れて、のりのきいた、まっ白のエプロンを取りだし、腰にあててひもをしめました。つぎは大型のサンライトせっけん、それから、歯ブラシ、束になったヘアピン、香水びん、小さな折りたたみ式のひじかけイス、そして、せき止めドロップの一箱を取りだした」(同前、一五ページ)のである。
 この、おこりっぽくて、おしゃれで、はなが上を向いている女中さんが来てから、バンクス家の子どもジェインとマイケルは、ふしぎなことばかり経験する。メアリー・ポピンズのおじさんの家へいくと、ちょうどおじさんの誕生日でお茶をごちそうになるのだが、おじさんは誕生日に笑うと笑いガスが発生して空にうかぶくせがある。結局、子どもたちは、空中でお茶を楽しみ、ゆかいな午後をすごす。
 バンクスさんの家のおとなりには、ラークおばさんが住んでいて、アンドリューという犬をかっている。ある日、だいじにしていたこの犬が野良犬と仲良くなって家にもどらなくなる。おばさんはやっきになって、よびもどそうとするが、犬はもどらない。そこへ通りかかったポピンズが、犬とおばさんの間にたって通訳し、犬の出した条件をおばさんにのませて、犬をぶじに帰らせる。
 また、満月の夜、ポピンズはジェインとマイケルをつれて動物園へ行く。すると、動物たちが外に出ていて、人間がおりにはいっている。クリスマスの買物にデパートへいけば、星の少女がおりてきて、ポピンズといっしょに買物をし、みんなの見ている前で、空にかえっていく。かずかずの不思議を子どもたちに経験させたポピンズは、春の西風にのってどこへともなく、とび去ってしまうのである。
 せんさく好きな大人は、ポピンズが見せるふしぎな出来事一つ一つに、なにかかくされた意味があるのかと、考えたくなる。犬と人間の通訳をするエピソードなど、なにか意味ありげである。だがパンを買ったらついていた紙の星を、パン屋さんとポピンズが、真夜中にせっせと空にのりではりつけていたというようなエピソードに、いったいどんな意味があるのだろう?
 ポピンズの一つ一つの物語には、特別意味はない。多くはナンセンスな笑いをよぶものか、あるいはひざを思わずたたくような思いつきのおもしろさである。ときには、かるい風刺のこもるものもあるが、それがこの作品の真の意味ではない。『メアリー・ポピンズ』の真の価値は、不可思議なものの日常生活への突然の侵入にある。その突然さ、あるいは瞬時性が固い日常性のからを破って、読者の心の幅と厚みをひろげていく。論理的累積の果てにあらわれる驚異の世界ではないところに、ポピンズの非凡な独創性がある。その点で、話の一つ一つは、よりフェアリー・テイルズの機能に近いといえる。だが、現代的なフェアリー・テイルズの集合体にとどまらないのは、メアリー・ポピンズという人物像の創造にある。
 ポピンズは、太陽や星と知り合いであり、古代ギリシャの神々と交際し、カラスや犬とも口をきく力をそなえた魔女である。ところが、この魔女は、醜怪な顔をしてホウキにのって空をとぶのではなく、少々おこりっぽい以外は、ごく当り前な女中さんにすぎない。そのおこりっぽさによって、不思議の世界と現実とをしっかりと結びつけ、物語を現代の空想物語にしている。もっとも、人によっては、ポピンズの世界は、現在ではないという。女中、庭番、台所女中などは、とうの昔にイギリスの家庭から消え去っているからである。たしかに、ポピンズは、三十年代においてもすでに過去の人物だったかもしれない。しかし、現実にばかり目を向けがちだった三十年代の読者たちに、別世界に目をひらかせようとした彼女は、やはり今日的だったということができる。
 『メアリー・ポピンズ』では、ほんの一部がのぞける程度だった別世界がありありと目に見えるようにえがき出されているのが、J・R・R・トーキンの『ホビット』(一九三七)である。トーキンは、オックスフォードで古代北方人やゲルマンの言葉を講ずる一世の碩学であるが、古代の神話・伝説・昔話などの知識をつかって、わが子に物語をはじめたことから、子どもの本『ホビット』が生まれた。他の児童文学の傑作の多くがそうであったように、これもやはり、最初は身近な読者に語りかけていたわけである。しかし、やがて、この本は、その意味深さを発見した大人たちによって、より多く読まれるようになり、著者も、この素材をさらに発展させて『ゆびわの王』三部作(一九五四〜五五)を発表し、現在イギリスとアメリカで一種の流行になっている。
 『ホビット』は、批評家マーカス・クラウチが、「胸おどる冒険物語であり、喜劇的なエピソードのある悲劇であり、魔法が加味されたピカレスク・ロマンスであり、著者の才によって現在よりもさらに現実的に感じられる、はるかな過去の歴史小説である」と定義したように、さまざまな顔をもっている。だが、子どもはたぶん訳書の名のとおり『ホビットの冒険』として読むだろう。
 ホビット(hobbit)とは、多分作者がつくりだした想像上の小人で、昔話に出てくる小人(dwarf)より小さい。このホビットのひとり、ビルボ・バギンズが、魔法使いガンダルフに説得されて、十三人の小人(dwarf)とともに、昔、竜にうばわれた小人の宝をうばいかえしにいき、首尾よくそれをとりもどすまでのはなしである。とはいっても、主役たちが、昔話の登場人物であるから、旅や竜とのたたかいの背景になる土地も、なみの空想冒険とはだいぶちがっている。旅のはじめに巨人につかまり、そこをのがれて進むと妖精の館にたどりつく。その館の主人というのが、
 「エルフ(妖精)と人間のまじった人でした。この種族の先祖は、ひとの歴史のはじまる前におこったふしぎなできごと、わるいゴブリン小人とエルフ小人の戦争や北のくににはじめて生まれた人間などの物語に出てくるのです。いま話しているこの物語の時代には、エルフと北のくにの人間の英雄たちとを先祖にいただく種族がまだ栄えていて、このやかたの主人エルロンドは、その種族の族長でした。」(瀬田貞二訳、岩波書店、八六ページ)
 そして、この主人は、旅をするホビットたちのもっている地図を月にすかし、古代文字でかかれた言葉をよみとってくれる。
 やがて、彼らは、山中で大雷雨に会う。
「一同は、片がわが暗い谷におちこむ、目のくらむようながけになった、せまい足場に集まっていました。そこに、おおいかぶさった一枚の岩があって、その下に一晩すごそうと、ビルボは一枚の毛布をかぶり、頭のさきから足のつまさきまで、ぶるぶるふるえてねていました。稲光のひらめくおりに、顔をつき出してあたりをながめますと、谷間から石の巨人たちが出てくるところで、石の巨人たちはたがいに岩にぶつけあい、取りあい、さては岩をやみの中にほうりこんで遊んでいました。」(同前、九五〜九六ページ)
 こんな世界で、彼らは、ゴブリン(小鬼)とたたかい、巨大なクモにとらえられ、妖精のとりこになって、最後に目的を達する。
 大学者が豊かな知識をかたむけて、ネスビットと同様な想像力をはたらかせて創造したこの世界は、あまりの内容豊富さに、多くの人びとは、批評にとまどっているらしい。そして、ほとんどが、よみがえった古代とか、あらあらしく力づよい北の風を感じるとかいった形容の言葉でにげてしまっている。この作品に関しては、それでいいのであって、読む人がそれぞれなにかを受けとる作品なのである。というのは、この作品には、素材を通じて、古い昔の人間の自然観、宇宙観、人生観などが息づいているから、そのどの部分を読みとっても、正しいのである。私は、私なりに、人間の行動・思考・感情などの原型を読みとったつもりでいる。
テキストファイル化日巻尚子