『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

ペローとグリム
ペローとグリムの童話
児童文学史の年表で、十八世紀のはじめをみると、一七〇四年にアントワーヌ・ガラン(一六四六〜一七一五)の『アラビアン・ナイト』の翻訳、一七一九年にデフォー(一六六六〜一七三一)の『ロビンソン・クルーソー』、一七二六年にスウィフト(一六六七〜一七四五)の『ガリパー旅行記』が出ている。一方、これらとはべつに、ジョン・ニューペリー(一七一三〜一七六七)が『かわいいポケットプック』(一七四四)をはじめ、安くて立派な数多くの本を出し、アイザック・ワッツ(一六七四〜一七四八)は、子どものために教訓詩を、サラ・フィールディング(一七一〇〜一七六八)は『女教師、女子教育の小さな塾』(一七四五)を発表していた。つまり、大人もので後に子どもの本棚の定住者になったものと、教訓主義時代の産物と、ほんとうの子どもの本とが、五十年ほどの間にどっとあらわれたことがわかる。子どものための文学は、事実上十八世紀からはじまったのである。そして、この新しい文学の偉大な先駆をなしたのは、一六九八年にペローが出版した童話集であった。
 ルイ十四世の宮廷のサロンで昔話を当世風に潤色して発表することは、オルノワ伯爵夫人(一六四九〜一七〇五)がはじめたものらしいが、たちまちのうちにサロンの大流行となった。しかし、朗読されたり、原稿で読まれたりした、サロンの昔話は、子どもを読者として考えていなかった。だから、それらがたしかに口づたえの昔話をもとにしているといっても、子どもにも受け入れられた少数をのぞいて、子どものための文学と考えるわけにはいかない。そして、唯一の例外はシャルル・ペロー(一六二八〜一七〇三)の童話集である。
 通称ペロー童話集―『教訓のある昔話あるいはコント集』は一六九七年にパリで出版された。だが、そのときには著者名がなく、翌年アムステルダムで出版された版には、長男ピエール・ダルマンクールの名があった。これは、フランスアカデミー会員であり、多くの詩をかき、現代作家がホメロスやプラトンやアリストテレス等の古代作家にまさるとする、いわゆる古今論争の火つけ役ともなった学者が、子どものよみものを発表することを笑われないためのかくれみのであったと、現在一般に考えられている。もっとも、中には、当時十九歳だったダルマンクールが書いて、父ぺローが手を入れたのだろうという説もある。たとえぱ、ダルマンクールのいとこにあたるマドモアゼル・レリチエがある会合でダルマンクールの最近かいた物語を話題にし、やがて、レリチエが話をする番がきたとき、〈マルモアザン〉という物語をきかせた。その話は、きき手たちに耳あたらしかったので、みんなは、それを才能あるダルマンクールに送り、彼の物語の一つに入れることをのぞんだという記録がある。そこから、童話集のアイディアはぺローの息子のものであり、じっさいに執筆し、出版をくわだてていたのであるから、著者はまさしくダルマンクールであるという説が出てくる。現在、子どもの本の歴史書を見ると、ある本は、父ぺローを、ある本は息子を著者としていて、まだおちつかない。
 それはともかく、昔話を再話した八編の話は、それが官廷のサロンから生まれたという一種のライセンスを背景に、教訓主義時代の子どもたちによろこばれ、たちまち各国に読者を得た。灰だらけの女の子が一躍王妃になる『シンデレラ』をはじめ、長ぐつをはいて天下を往来し、主人を王さまの婿に押しあげる『長ぐつをはいたねこ』、なぞと恐怖とスリル満点な『青ひげ』、ぞくぞくとこわい『赤ずきん』などは、読むものといえば、魂のすくいについてのむずかしくて、いかめしい本や、やかましくしつけをさけぶ本しかなかった子どもたちにとって、奇蹟のようにすぱらしい本に思えたにちがいない。教訓はあった。しかしそれは、改心しなければ永遠に地獄の火にやかれるというおどしでも、日常生活のすみずみまで口を入れるうるさいしつけでもなくて、「父から子へとおくられる、ゆたかな遺産がもらえることは、大きな利益であるとしても、わかい人たちにとっては、勤勉で世わたりのうまいほうが、もらった財産よりも、はるかにねうちがあります。」(『眠れる森の美女』江口清訳、角川文庫、五四ページ)といった、実用的で、賢明でひかえめなものだった。
 ペローの八つの物語の魅力は、昔話のそれであるといってよい。彼は、オルノワ夫人その他の昔話再話者とちがって、たくさんに方言や俗語をつかい、昔話の簡明さをたもとうと努力をはらった。だが、その努力のはらい方を、一八一二年から世に出はじめたグリム兄弟の、いわゆる『グリム童話』とくらべてみると、やはり、数多くの疑問がのこる。
ペローとグリムの「シンデレラ」(ペローの題は、「サンドリヨン」Cindrillon グリムではアッシェンプッテル Aschenputtel)をくらぺてみよう。
 妻をなくして、むすめといっしょにくらしている男のところへ、連れ子ふたりをつれた後妻がくる。後妻と二人の連れ子たちは、先妻のひとりむすめにつらくあたり、その子を台所に追いだし、灰にまみれた暮しをさせる。ペローは、先妻のむすめシンデレラに対する後妻の二人むすめの態度を、わけて、妹の方が、「姉さんほど失礼なことを口にしない」(前出書、江口清訳、六五ページ)としているが、グリムの方は、「三人はわいわい言って、あざわらいながら、娘を台所へつれていきました。」(グリム童話集(一)金田鬼一訳、岩波文庫、二二六ぺ−ジ)と区別がない。
 さて舞踏会へいく場面になると、ペローのシンデレラは、「サンドリヨン、あんたも舞踏会に行きたいでしょうね?」と、二人の義姉にきかれたのに対して、「まあ、お嬢さまがた、あたしをおからかいにならないでください。あたしなどが、そのようなところへ、どうして行かれましょうか。」と卑下し、義姉たちの身支度をあれこれ手伝って、彼らが行ってしまってから、行きたいと泣く。
 グリムのシンデレラは、はじめから行きたいとせがむ。そして、どうしても行かせてもらえないとわかると、死んだ母親の墓へ行って、舞踏会へ行く衣裳をねがう。死んだ母親の墓には、父親が旅に出たとき、シンデレラが、最初に帽子にふれた木の枝をとたのんでもってきてもらったハシパミの枝が大木になっていて、この本にいるハトにねがうと、美しい衣裳をおとしてくれる。ペローの方は、シンデレラが泣いていると、母親がわりの仙女があらわれ、うらからカボチャをとってこいという有名な場面になる。舞踏会でも、二つは大きくちがっている。シンデレラは、姉さんたちのところへ行って、王子さまからいただいたオレンジやレモンをわけてあげて、いろいろ話をする。グリムのシンデレラには、そんなところはない。そして、最後に三人むすめがくつをはく場面になる。シンデレラが王子を魅了したお姫さまとわかったとき、ペローの義姉たちは、シンデレラの前に身をなげだしてゆるしを乞い、シンデレラも、二人を心からゆるして、やがてこの二人をりっぱな官廷人のおくさんにしてやるのである。
 グリムの結末は、すさまじい。二人の姉は、金のくつが足に合わないことがわかると、母親のすすめで、一人は足の指を、一人はかかとを切りとってしまう。そして、シンデレラが王子のおよめさんになると知ると、まっさおになって怒り、婚礼にも、幸運のおすそわけにあずかろうと、のこのこ出ていって、ハシパミにいたハトに、目玉をえぐりとられてしまう。ペローは、いつできたのかわからない昔話の時を十七世紀フランスにかえた。それは、シンデレラが姉たちに与えたオレンジやレモンが、当時のフランスで珍重されていたこと、姉たちが髪を高くゆいあげ、胴を細くしめて舞踏会に出たことなどでもよくわかる。そして、シンデレラの態度全部が、王妃になるにふさわしい美徳の表現になっている。グリムのシンデレラははるかに素朴で、きびしくて、古めかしい。昔話本来のものが感じとれる。もちろん、グリム兄弟も、口づたえに語りつがれた話を、そのまま記述したのではなく、主に弟ヴィルムヘルム・グリム(一七八六〜一八五九)によってかなり潤色がなされていることは、多くの研究によってあきらかになっている。それでもグリムの方が昔話本来のものに近く感じられるのは、ペローの童話がなにかをけずっているからだと思う。
 ぺローは、民俗学者ではなかったけれど、昔話の主要な部分はまちがいなくつかんでいた。試練の果てに、正当な権利が主張されるというシンデレラのテーマは、グリム同様に正しく表現されている。ちがうところは、彼がそれを、より劇的に、色彩ゆたかに、洗練された形で表現した点である。子どもたちは、まちがいなくぺローのシンデレラを、グリムのそれよりも好むにちがいない。むだなくひきしまった物語の展開と、カポチャでつくった金の馬車やガラスのくつといった想像力の産物は、彼らをすばらしい魔法の世界にさそいこむ。しかし、その代償のように、ペローのシンデレラは、素朴な驚異と恐怖を失ったといえるのではなかろうか。
テキストファイル化小田 美也子