子供の本のブックデザインについて思うこと

野上 暁
日本児童文学1993/008

           
         
         
         
         
         
         
     
           
 子どもの頃から、なんとなく本屋さんが好きだった。今でも仕事がら週に何回かは書店を回る。長期の旅行などから帰ってくると、真っ先に本屋さんに行かないと落ち着かない。探している本があるわけでもないのに、書店の棚をのぞいて回るだけで楽しくなってくる。これはもう、「本の病」とでもいうしかない。ぼくにとって書店は「知のワンダーランド」なのだ。
 書店に並ぶたくさんの本を見ていると、向こう側から手に取って欲しいと呼び掛けてくるような本に出会うことがある。書名や著者に興味があるわけでもないのに、つい手を出したくなるような独特の気配が感じられる。一冊の本が醸し出す不思議な魔力が、ぼくを誘惑するのだ。そういう魅力的な本は、ブックデザイン全体に行き届いた配慮がなされていて、作り手たちのその本に注ぎ込んだ愛情が伝わってきて気持ちがいい。
 当たり前のことなのだが、本という商品を書店の店頭という晴れの舞台に送り出すた
に、作り手たちはどんな衣装を着せるかに細心の注意を払う。不特定多数の読者という観客を、まずどうやって引きつけるか。演技を見せるのはそれからだ。けばけばしい厚化粧で、とりあえずの人目を引くというのも一つの方法であろう。あるいはまた、最新流行のスタイルで登場させるというのも手かもしれない。逆にシックな装いで、ちょっと見には地味だけど、案外シブイ演技が期待できそうだと思わせるやり方もある。
 そのような中で、子どもの本の売り場に行って気がつくのは、厚化粧のオンパレード。これにはちょっとウンザリする。確かに目立つことは目立つのだけれども、一冊一冊の個性がかえって埋没してしまい、決して効果的とは思われない。子ども商品はこうでなくちゃいけないという送り手の思い込みが、現代の子どもたちの美意識を超越したところで作用しているとしか考えられないのだが、それは大きな誤解というものだ。
 幼い頃からデザイナーズ・ブランドの衣類に囲まれ、マイ・ファースト・ソニーのようなデザインに工夫を凝らしたおもちゃで遊び、知らず識らずのうちに豊かなデザイン感覚を身につけてきている子どもたちが、そのようなみてくれだけの安易なアピール方法に満足するはずがない。
 最近、一般書では装丁者の名前を明記しているものが多くなったが、児童書ではまだまだ少ない。他の分野に比べても、ビジュアル依存度が圧倒的に高い子どもの本の世界なのに、ブックデザインに対する配慮が意外なほどなされていない。それはちょっと不思議なくらいだ。
 そういった状況だから、たとえば杉浦範茂さんの装丁の仕事などは、じつに際立って見えてくる。カバーデザインだけではなく、帯の色づかいから文字の配列まで杉浦さん独特の計算がされていて、一目見て「あっ、これは杉浦さんの装丁だな」とすぐに納得してしまう。
 たとえば「四つのふたご物語」(いぬいとみこ 理論社)。ちょっと見ただけではわからないくらいうすい黄色を下地に、いせひでこさんのモノクロのイラストを大胆にあしらい、微妙に色の違う四つの色玉をポイントにして、控え目に著者とタイトルをセンターに縦に配したケース。帯の色と文字の配列が、ケースの文字と一体となって落ち着いた雰囲気の中に動きを感じさせる。
 カバーはケースと同じ色調の地に、作品に登場する様々な動物のキャラクターをスミ一色で全面に散らし、作品の世界を楽しく浮かび上がらせている。そしてクロス装の表紙と微妙に響きあう見返しの色づかい。おそらく、膨大な分量の四つの作品をしっかりと読み込んだ上でのブックデザインなのであろう。総扉から本文の文字組や使用する活字の書体に至るまで、作品世界に合わせ見事なくらい丁寧に計算されていて心憎いばかりだ。
 しかし、この本が図書館に入ったときどうなるか。まずケースや帯は外されるに違いないから、装丁者がそこに凝らした工夫や努力は水泡に帰す。一冊の本をたくさんの人が手に取る図書館の特殊性からすれば、仕方がないのかもしれないが、残念なことだ。ケースはともかくとして、図書館ではとれやすいカバーも外される場合が少なくない。この本のような場合、最低限カバーだけは外さないですむような配慮や工夫が図書館サイドに欲しいと思う。
 外国の絵本や福音館の絵本のように、最初からカバー無しで出版される本もある。しかし日本のように書店からの返品が可能な委託制度を取っている場合、カバーが無いと本が汚れたり痛んだりするため、いたずらに本の寿命を縮めてしまうことになりかねないから、痛し痒しというところだ。
 児童書の専門店などでは、帯は外れやすいから最初から取って店頭に並べているところも少なくない。子どもたちがたくさん手にする本ほど、帯が取れたり破れたりするので、それも仕方がないと言えばいえる。しかし、デザイナーが関わっている本の場合は、帯も計算に入れてデザインしているから、帯を取ると間が抜けてしまう。
 最近の本で言えば、フォト・ジャーナリスト、ユージン・スミスの伝記「ユージン・スミス 楽園へのあゆみ」(佑学社)のような場合。モノクロの写真とスミ文字と地色の白との鮮やかなコントラストに、淡いグリーン文字をポイントとして生かしたカバーと、白帯に同じグリーンを載せた配色がシックリと調和し、極彩色が氾濫している児童書売り場のなかでセンスの良さを際立たせていた。しかし、この帯を外してしまったらずいぶん違ったものになってしまう。装丁者である柏木早苗さんの企ても、この本のデザインに賭けた熱意も、読者の目に触れずに終わってしまうのだから悲しい。
 ついでに言うと、「ぼくの魔法の運動ぐつ」(佑学社)も、賑やかな児童書の中にあって、明るい色づかいで落ち着いた雰囲気をうまく演出し、好ましく思って装丁者の名前をみたら同じデザイナーの仕事だった。こういう本に出会うと、ついつい読んでみたくなる。
 子どもの本の、図書館や書店でのカバーや帯に対する軽視は、それを真剣に考えてデザインしている人たちにとっては許しがたいことだろう。しかし、そうされても仕方がないような作りの本が相変わらず多いのが現状だ。最近では、ちゃんとデザイナーをたて、装丁に気を使った本が少しずつ増えてはいるけれども、まだまだそれも少数派だ。内容はもちろんのこと、それぞれの内容に見合った版型や紙質、そして本の全体を演出するブックデザイナーの起用によるデザイン的なセンスアップが、今こそ必要なのではないか。
 五月号の本誌の時評で、佐藤涼子さんがイギリスのドーリン・キンダスリー社のノンフィクションを中心にした本造りにふれているが、同社のブックデザインのコンセプトにも、教えられる点が少なくない。『ビジュアル博物館シリーズ』(同朋社出版)に典型的に表現されているように、影つきの写真を切抜きで使い、白地を生かした上品なレイアウトが世界的に評判になり、各国との共同出版が目白押しだ。同社の本は現在でもずいぶん翻訳出版されているが、これからもわが国で次々と目にするに違いない。
 以前、ドーリン・キンダスリー社の図版を担当しているフィレンツェのイラスト工房で、たまたま同社のレイアウト用紙を見せてもらったことがある。デザイン優先の本造りが、わが国でどれだけ浸透するか未知数だが、ラフレイアウトの段階からかなり詳細な図版の指定があって、ちょっとびっくりした。またイラストの参考資料の多さも大変なものだった。
 最近の新刊を見る限り、同社のデザインワークも、いささかマンネリ気味の感じがしないでもない。また、人気の『ビジュアル博物館シリーズ』も、表紙だけに限って言うと、フランスのガリマール社版の方がもっとデザインセンスがいい。このように、海外の装丁や本造りからも、まだまだ学ぶ点は少なくない。
 最後に、この号の特集が「子どもの本のさまざまな試み」ということらしいが、そこで取り上げられるであろう本についても、デザインワークの観点から改めて注目してみて欲しい。子どもの本として実験的な試みのように思われるものに、意外とデザインセンスからは首をかしげたくなる本が少なくないからだ。テーマや素材だけで教材的に学校図書館に売りこむ本の場合、書店の店頭での読者の注目度など気にしないですむから、たいていの場合デザイン感覚や読み手に対するサービス精神を無視して成り立っていることが多い。価格設定についても、書店で読者が選択するのとは違って、びっくりするくらい高い値段が付けられている。
 向こう五年間に、学校図書館用に五百億円の予算が計上されたと聞くが、毎年新学期に向けて刊行されるこういった教材類似のセットものの子供の本は、教材的な価値だけではなく、ブックデザインの観点からも吟味されたいものだ。よく考えられ設計された本のブックデザインは、単に見てくれの良さだけではなく、読者が理解しやすく楽しみやすい配慮がきちんとなされている。安易なセットものが送り込まれていちばん迷惑するのは子どもたちで、それが本嫌いの元凶にもなりかねないから、その点こそは十分に配慮されなければならない。
日本児童文学1993/008
テキストファイル化いくた ちえこ