60年代の早大童話会

千葉幹夫
鬼ケ島通信35号

           
         
         
         
         
         
         
     
 一九六三(昭和三十六)年、大学入学後まもなくの私は「早大少年文学会」に入会したのだが、児童文学の世界がわかってくるにつれ、ここはとんでもない会だということがわかってきた。会の特別顧問は芸術院会員坪田譲治で、前川康男、永井萌二、鈴木隆、今西祐行、大石真、竹崎有斐、寺村輝夫、高橋健、古田足日、鳥越信、山中恒、砂田弘、山元護久などという(とても書ききれない)錚々たる会の先輩が児童文学界で活躍している。
 入会後一週間ほどして坪田譲治の主宰する「びわの実文庫」につれていかれる。ちょうどこの年、「びわの実学校」が創刊されたので、同人となった諸先輩のほか、松谷みよ子、宮川ひろなどという作家とも顔なじみとなったのだ。
 これはたしかにとんでもないことだが、実はもっととんでもないことになっていたのだ。大学は昭和三十五年の反日米安保条約の敗北感がまだ残っており、実存主義の花ざかりだった。ぽっと出の田舎者にはなにがなにやらわからないまま、サルトル、カミュ、マルローなどを読まされ洗脳されていった。さらに古田足日『現代児童文学論』をバイブルとして、わが内なる童心主義を撲滅すべく奮闘を余儀なくされていく。もちろん、この背景には、一九五三(昭和二十八)年に発表された「少年文学の旗の下に」があったことは間違いない。起草は鳥越信。少し引用しよう。

 いまここに、新しきもの、変革をめざすものが生まれた。「少年文学」の誕生、すなわちこれである。「少年文学」のめざすところ、それは、従来の児童文学を真に近代文学の位置にまで高めることであ り、従ってそれはまた、一切の古きもの、一切の非合理、非近代的なる文学とのあくなき戦いを意味する。とまあ、しごく元気がいい。この元気で。メルヘン、生活童話、無国籍童話、少年少女読物などを克服するのだという宣言なのである。
 したがって小川未明とか浜田広介は、否定されるために存在していた。「未明もいいところがあるのでは」などといおうものなら「君、ちょっとこっちへ」ということになる。そして、宣言の最後ちかくはこうだ。

 従って我々の進むべき道も、真に日本の近代革命をめざす変革の論理に立つ以外にはなく、その論理に 裏付けられた創作方法が、少年小説を主流としたものでなくてはならぬことも、また自明の理である云々。

 この変革の論理というやつが、その後の日本児童文学の大きな柱の一つになってきたことはたしかだ。社会革命のための文学。宣言はそれを目指し、私たちは宣言の旗の下にいた。しかし、鳥越、古田等の先輩たち、おもに坪田門下といわれる人たちはこの宣言どおりの考えを持っていたわけではない。とんでもないこととは、この分裂のことだ。会に所属する一方、びわの実文庫にも通っていた鈴木悦夫や私たちは、三年生のときの早稲田祭で「譲治、未明、広介童話を検証する」というシンポを開いて、自分たちの足場を見なおす作業にかかった。
 卒業後、鈴木も私も児童図書の編集者となり、創作の現場で自分たちの甘さを思い知らされることになる。一年に二十冊読めばその年の創作はわかるというときから、千冊もの創作が出る七十年代はすぐそこだった。卒業後まもなく今井祥智から「斎藤隆介という人の作品が出版されれば日本の児童文学はかわる」といわれた。その予言が正しかったのは間もなくわかるが、変革の論理が変質していく過程でもあったと思うが、その検証はまた別のことだ。
鬼ケ島通信35号
テキストファイル化原田 早映子