『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

古田足日著 児童文学研究シリーズ
児童文学の思想   牧書店

まえがき ――あとがき調に――

 ぼくの最初の評論集『現代児童文学論』発行の日付けは1959年9月だから、それから五年と数か月たっている。その五年のあいだに書いた評論および、それ以前に書いて『現代児童文学論』にはいっていなかったもの、この両者から十五編を選んで、この本におさめた。
 選ぶ基準は別にはっきりしたものがあったわけではない。自分の印象にのこっているものを分類してみると、伝統・現在・戦争となり、なるほどと思った。もちろん、すべては現在に集約されるが、その現在の背後には巨大な伝統があり、ぼく個人としては戦争中にそだったというものを持っている。そのことをあらためて認識させられた。
 ただし最初選んだものが、すべて伝統・戦争であったのではなく、そう整理してみて、伝記や、児童文学とは何かという問題に関するものははぶいた。伝記は道徳教育のなかで、もう一度考えてみたいし、児童文学とは何かという問題は近刊『児童文学の理論』(理論社)のなかにくみこむ方が、その位置がはっきりするからである。かわりに、そのときどきの時評めいたものを一括して出したかったが、紙数を考えてみると、おさめることはむりであった。

 伝統・現在・戦争のうち、伝統について書いたのは比較的古く、次は現在のうちの「マンガ論」であり、戦争についてが近くのことになる。これはひとつには批評というしごとの性質によるものだろう。ぼくのような、いわば時評屋はつねに目の前の作品・現象に心をひかれ、戦争についての作品が多くなれば、そのことを書くということになる。また、そういう注文を受けることで、こちらはなにがしかの原稿料を手に入れることになるからだ。
 しかし、書くものが時期的にことなってきたのは、こちらの関心の変化ということもある。この本におさめなかったが、最近のある評論のなかで、ぼくは「伝統は自分一身のなかにある」と書いた。他人の作品を考えることよりも、いまぼくに必要なのは現在の創作の内容・方法であり、自分自身の児童文学にむかう動機をつきつめることである。ちかごろマンガ論も多くなってきたが、ぼくにはもう人並みの関心しかない。
 その点、十五編の評論中、自分でもっとも印象深いのは「実感的道徳教育論」である。「実感的道徳教育論」は児童文学批評をせまく考えれば、その分野からもはみだしているかもしれない。
 しかし、ぼくにはそのように書くしか道がなかったようで、いまのぼく自身にぴったりとくるものは、やはりこの作品である。これをぼくに書かせたのは、当時『人間の科学』の編集部にいた加清あつむ氏であった。加清氏によってぼくは触発された。加清氏の電話と手紙がなかったら、この作品はこうしたかたちでは生み出されなかったと思う。
 その意味でも編集者の力は大きく、この十五編のうち明治図書の雑誌・単行本に書いたものが多いが、これは同社の江部満氏のおかげであり、「戦争の虚像対真実」は日本読書新聞の富田三樹氏によっている。
 またぼくの場合、二十枚の評論にはそれ以前にかならず三、四枚の短評があるといってよく、それを書かせ、つねに一歩前へと(そうできたのかどうかはわからないが)考えさせてくれたのは、やはり日本読書新聞にいた水沢周氏であった。
 「実感的道徳教育」引用の「軍神関中佐の歌」は発表当時「神国特攻隊の歌」となっていた。最初の神風特攻隊敷島隊の関行男大尉(当時)はぼくが学んだ旧制西条中学校の出身者であり、彼をたたえる歌であったことをのちに思い出した。
 ゲラになって読みかえしてみて、いたらないところの多いのにあらためて気がついた。たとえば、佐藤曉の『だれも知らない小さな国』にふれた部分など、いいたりないところがある。だが、それがぼくのせいいっぱいのしごとだったと思えばしかたがない。新しく同世代の作家論を書く機会をつくりたいと思っている。
 そして、編集者のことをいえば、さいごに、この本をまとめてくれた牧書店の保坂重政氏、吉田織絵氏に感謝したい。

 1965年 1月

 古田 足日

テキストファイル化塩野裕子