『現代児童文学論』(古田足日 くろしお出版 1959)

象徴童話への疑い
――「皇帝のあたらしいきもの」について――

1 あらすじ
「皇帝のあたらしいきもの」は、一八三七年に書かれた。作者はいうまでもなく、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン――近代児童文学の建設にあずかったさいしょの人である。
この作品は、わが国では通称「はだかの王さま」となっているようだ。「明治三十九年、坪内逍遥らによって作られた文芸協会の発会式の夜、杉谷代水によって『はだかの王さま』という劇につくられて」以来のことらしい。だが、「世界少年少女文学全集」(創元社)「少年文庫」(岩波書店)では、「皇帝のあたらしいきもの」となっている。この作品が名高いのは日本に限ったことではない。「世界的に知られている」とソヴィエトの百科事典は書いているが、考えを進めて行く都合上、あらすじを述べてみよう。
なん年か前のこと、きものずきの皇帝がいた。
その皇帝が治めている都にふたりのぺてん師がやってきた。ふたりは世界一の織物師だと名乗る。彼らのつくるきものは、ばかな人間や、役めにむかない人間の目には見えないという。皇帝は、さっそく織物を織り、きものを作るようにと命じて金を渡す。
やがて、皇帝は仕事の様子が見たくなる。自分のかわりに大臣をやる。仕事場では、ふたりがいそがしそうに働いているが、大臣の目には、なにも見えない。もともと、なんにもないのだから見えないのは当然だ。だが、大臣は、織物が、ばかや、役めにむかない人間には見えないことを思い出す。大臣は見えないきものを見えるという。
こんどは別の役人が見にいく。
三度めには、皇帝が見にいく。役人も皇帝も見えないきものを見えるというのは前の大臣と同様である。
できあがりの前夜、ぺてん師はろうそくをつけ、町の人々にいっしょうけんめい働いているように見せかける。
きものはできた。宮内官たちもほめそやし、ぺてん師は皇帝にきものを着せるふりをし、皇帝もきものを着たふりをする。
皇帝は行列をつくって、町へ出かける。人々は、皇帝がなんにも着ていないのに気が付くが、黙っている。ひとりの子どもがいう。「なあんだ。なんにも着てやしないや。」みんなはさけび出す。「はだかだ、はだかだ」。皇帝もやっとなんにもきていないことを知った。しかし、今さら行列をやめるわけにはいかないと思う。ありもしないもすそをささげて侍従たちは進んでいく。

2 関英雄さんの評価
児童文学の作家でもあり、評論家でもある関英雄さんは、この作品について次のようにいう。「『皇帝のあたらしいきもの』では専制王政の偽政治が痛烈にヤユされている.。『王さまははだかだよ!』とさけぶ市民の子どもの正直な目は、特権階級の虚飾を見破る平民的真理の目である。(「アンデルセン童話全集」第三巻・河出書房)」なおまた「『皇帝のあたらしいきもの』で、素朴な子どもの目に虚偽と映るような専制王政のカリカチュアを描き」ともいう。一方、関さんは、アンデルセンの限界として「彼は専制王政を否定したが共和王政を否定しなかった」とのべる。
ぼくはこの作品を、アンデルセンの作品中、もっともすぐれたもののひとつとして考えるが、その理由は関さんの考えとはまったくちがうといってよい。
まず、ぼくがここで疑うのは、子どもにとって、専制王政というものの輪郭が、どんなふうに意識され、理解されることができるかということである。だが関さんはおとなの立場でこの作品をみているようだから、読者を子どもと限らないで、この作品をみていこう。
「王さまははだかだよ」ということばだけでは、専制王政のカリカチュアとならないことは当然だ。「王さま」ということば、「皇帝」ということばだけでは、それが専制王政を意味するものか、共和王政を意味するものかは区別できない。専制君主としての皇帝、この皇帝をささえる宮廷の人々が描かれていることが必要となってくる。そしてそれをカリカチュアする立場は「平民的真理」に立っているものでなければならない。
まず皇帝について考えよう。皇帝は「たいへんきものがおすき」である。きものずきは虚栄的行動ではあっても、専制君主の行動とはかぎらない。ふつうの人々の間にもきものずきな人はいる。そのきものずきの皇帝が、あるいは民衆を苦しめ、あるいは宮中の人々をふるえあがらせ、またそれを利用する連中などが描かれなければ「専制王政の偽政治」ということばは成立しない。「皇帝は持っているお金はみんなきものに使って、いつも、美しく着飾って」おり、「兵隊のことも、芝居を見にいくことも、馬で森へ遠乗りすることも、みんなご自分のきものをみせびらかすときでなければ、少しも気にかけない」。これらの行動は、後、皇帝が、ぺてん師に金を与え、勲章や称号をさずけ、行列を作って町にでかける行動と同種類のものだ。皇帝はえらいものという読者の認識のなかには、馬で森へでかけたり、金を与えたり、行列したりすることは含まれている。読者にとって、皇帝のこのような行動は当然である。だが、皇帝がどのようにして、金を与え行列する力を得たのか、この行為の背後に下敷きとなっている人々があることを考えた時、実は当然と思われることが当然ではない。専制王政をどんな形であれ、描こうとした場合、描くべき問題の核心はそこにある。
しかし、この作品の批判の目は、表面的な現象、つまり皇帝が、兵隊や芝居のことも「ご自分のきものを見せびらかすときでなければ、気にかけない」点に向けられてはいても、その核心までつこうとはしない。「ふつうでは『王さまは会議中でございます』というはずのとき、ここでは『皇帝はごいしょうの間においでになります』というのでした」。さいしょから専制旺盛は描かれていない。
皇帝は、自分を信じることができない。織物がどのくらい織れたか自分で見にいきたいのだが「心の中はちょっとおちつかない」。「もしも自分がばかか、皇帝にむかないようなことがあったとしたら見ても見えないという話だから」である。これは皇帝への諷刺にはちがいない。しかし皇帝がなぜ自分を信じることができないのか、その理由は描かれない。自分への不安と皇帝という地位が関連したものとしては、とり出されていないのである。
皇帝は、そこで大臣に見にいかせる。人間は、だれでも不安なこと、いやなことはやりたくない。それを力でもって他人に強制するのが専制君主であろうし、これに対応しては、皇帝の権力を絶対と信じる人々が存在するだろう。この作品の大臣は、皇帝のいうままに動いたが、これらを、専制王政の偽政治につながるものとするには、この皇帝、大臣の姿は虚偽だと批判されなければならぬ。さらにその虚偽がひきおこす政治的悲劇、喜劇が描かれる必要があろう。大臣も役人も、皇帝も、見えないきものが見えるという。「わたしはばか者なのか」と大臣は考えた。「それともお役めにむかないとでもいうのだろうか? いや、これはいかん、織物が見えないなどとうっかりしゃべったらそれこそたいへんだ!」と思う。「あれくらいりこうで、役めにぴったりしている者はほかにはいない」と皇帝が信頼している「正直者」の大臣である。大臣はその信頼にそむくわけだが、これもそのまま特権階級の虚飾としてはうけとれない。そのずるさが、大臣という地位にどれだけの連関があるかは書かれていないからだ。、大臣でなくても、町の人々もやはり同様な考えを持っていて、「お互いにとなりの人がどのくらいばかか役めにむかないかをみてやろうと心待ちに待って」いるのである。「役めにむかない」ということを、大臣たちが今の地位を失うことと結びつけても、特権階級の虚飾としてうけとられるには、皇帝という地位、大臣という地位の気持のよさが描かれる必要がある。その時、はじめて彼らの行動は個性化し、特権階級としての姿を現わす。
特権階級が描かれないと同様に、民衆も描かれない。人々は皇帝の力の恐ろしさを知らない。行列をながめている群集が、みえないきものをほめ、「皇帝のきもののなかでこんどほど評判のよいものはない」のは、けっして皇帝を恐れているからではない。「役めにむかないとか、大ばか者だとか、と気づかれたくない」気持からである。この気持は、皇帝や大臣、宮廷の人々の気持でもあったものだ。
関さんがいう「平民的真理」が生まれるのに必要な条件、特権階級と平民の決定的なちがいは、今までどこにも描かれていないのである。皇帝と民衆との本質的な差、支配者と被支配者という関係が、どこに明らかにされていようか。ふたつの関係は、ただ行列するものと、それを見るものとのちがいにしかすぎない。そして、そのことに民衆は疑いをさしはさまない。権力をふるう上層部も、それに圧迫される下層部もこの作品には存在しない。そこで、ひとりの小さな子どもが「なんにも着てやしないや」と平気でいえるのである。
ふつうなら、小さな子どもの行為であろうと、自分の権威を傷つけるものを権力はそのままにしてはおかない。しかしこの作品の皇帝は、今までみてきたところ無力である。無力だからこの子どもは自分の思ったことを口に出すことができる。皇帝と民衆との差が行列するものと、見るものとのちがいだけにとどまらないで描かれた時、はたしてこの子どもは「なんにも着てやしないや」ということができたろうか。皇帝の力が強大であれば、子どももじゅうぶんその力の恐ろしさを教えこまれているはずだ。だが皇帝は、人々が、皇帝ははだかだとさわぎたてても、解放を命じる力を持っていない。
この作品には、一貫して、皇帝の権力、その専制的支配は描かれていないのである。つまり、カリカチュアされる対象としての皇帝は専制君主としての皇帝ではない。宮廷の人たちも、専制王政下の特権階級としては登場しない。ただ皇帝ということば、大臣ということばに含まれる特権階級的要素が読者に作用するだけのことである。こうした作品を、どうして「専制王政のカリカチュア」を描いたものといえようか。ぼくは、関さんのことばを否定する。

3 読者層の設定
一般に子どもたちは、皇帝と大臣をえらいものと思っている。ぼくが考えるこの作品の価値は、このえらい皇帝たちもうそをつき、まただまされることがあるということを書いた点だ。
こう言えば、あるいは、そんなものが文学作品かという人があるかもしれない。だがその人は、読者が子どもであるということを忘れている。限界はあるが、この作品は、子どもの意識変革、概念育成という機能を、ちゃんとはたしているのである。
おとなが、こんなばからしいものと笑う木片や小石にも、子どもは大きな意味を持たせることがある。同様に、おとなが、一見なんの価値もないと思う児童文学作品が、子どもにとっては、大きな価値を持つ場合がある。作品の文学性は、読者の享受によってはじめて完全な作用をする。創作という作業の上に享受という作業が行われてこそ、文学作品の機能は完全に発揮される。このことは、ぼくたちが作品を考える際、常に読者を予想していなければならないということだ。
当然、ぼくたちは読者の年令を考えなければならぬ。児童文学作品を考える場合、これはかならず必要なことである。読者の年令決定というのは、作品が最大限にその機能を働かす年令を考えることにほかならない。アンナ・カレーニナを考える場合、だれが五歳の子どもに適したものとして考えていようか。だが年令決定という問題は、その重要性にもかかわらず、今まで軽視されてきている。ひらがな童話、カタカナ童話、何年生童話などといろいろ試みられてはいるが、それは外面的、形式的な面で考えられているにすぎない。ほんとうに児童の精神的発達に応じた年令決定がなされているのはほとんどない。
ところで、この作品では、皇帝たちがみんな、自分の目には見えないきものを他人には見えるものと信じている。皇帝たちが、大ばか者の目には見えないというきものの存在を疑わないことを、ふしぎに感じる読者は、この作品の読者としては不適当であるといえよう。つまり読者もまた目に見えないきものの存在を疑ってはならない。
こうした心理を持つ年令層は、幼年期、現実と空想がまだ未分化の状態にとどまっている年令層と考えられよう。もちろん、おとなの読者であっても、そういうきものの存在を疑おうとしないが、これは「童話」というものはこういうものという約束が暗黙のうちに成立しているからであり、この約束をささえているものは、おとなのうちに残存する児童性、あるいは未開人の心理に近い原始性であろう。そして、子どもはおとなにくらべて、このきものの存在に、より深い生き生きとした興味を感じる。
続いてこの作品には、大臣、別の役人、皇帝と、なんどもはたおり場を見にいっては、見えないきものをほめそやすというくりかえしがおこなわれている。おとなにとっては単調なくりかえしにあきもせず興味を感じるのは、これも未分化の子どもの心理である。
そしてこのはたおりの場面を、子どもは、もっとおもしろがる。四歳から小学校五年生に至る六人の子どもに、この作品を読んでやっての感想では「はたになんにもないところがおもしろい」「うそをつくところがおもしろい」「じょうずにだますところがおもしろい」というようなものであり、後半、一般にこの作品の山とみられる「なんにも着てやしないや」というところより、みんなが興味を感じているのである。
小さい子どもにとっては、人をだますことはおもしろい。ぺてん師は皇帝をだますが、なんの報いもうけない、原始にあっては人をだますことは、けっして悪徳ではなかった。うそをつくということは、人類の成長過程のひとつの時期である。今なお、その段階に止まっている種族もあるということだ。またメルヘンや民話のテーマのなかには、人をだますことがよくみられる。
そして子どもは、原始からの人類発達を、その成長過程でくりかえすという。大きい子どもたちは、ぺてん師がむくいを受けないことに矛盾を感じる場合がある。小学校五年生はその点をへんだといい、ぼくも幼時、同様の感じを持った。この時、この作品価値は半減される。この作品は、まだこうした矛盾を感じない子どもたちに適したものであろう。
この段階の子どもたちでは、時間的、空間的観念は、まだめいりょうな形をとっていない。だから「なん年かまえのこと」という書き出しで、この作品は始まる。すべてこうした未分化の考え方が、作品を貫いているといえよう。
ぺてん師が皇帝をだますということ、これも現実では、いろいろ複雑な手続きが必要である。だが幼い子どもの世界では、エリザベス女王もシンデレラも同一次元に住んでいる。現実には不可能なことも、次元の差を飛躍してみる子どもにとっては可能なこととなる。
そしてぺてん師が宮廷にはいり、皇帝たちと平気で話し合うことができるのが、事件の前提となっていることを、見落としてはならない。子どもにとって皇帝とぺてん師の差は、けっして人権に圧迫を加えたり、圧迫されたりする差ではない。金や、宮殿や、家来を持ち、行列することができるものと、そうでない人間の差である。子どもにとって、この意味では、皇帝も王も、まさしく「あこがれの象徴」でありながら、ぺてん師と対等の存在である。皇帝と民衆との差も、行列するものと見るものとの差だというのは、実は差がないにひとしい。教えこまれた皇帝たち、えらい者という観念とともに、未分化の対等観念――人形もおもちゃも皇帝も本質的には差を持たない混沌の認識が、この作品の中に流れているのである。
こうした理由で、一応ぼくは、この作品の読者の年令層を、意識未分化の年令層と仮定して考えていこう。

4 現実の形象的反映(1)
    ――ぺてん師――
前章のはじめに、ぼくはこの作品の価値を概括的に述べた。その内容――えらいと思われてきた皇帝をひきずりおろす健康な原理――と、限界を、ここで明らかにしていきたい。
この際、ぼくの評価の基準となるものは、まず文学作品は現実を正しく反映し、十分に形象化されていなければならぬということである。正しくというのは、人間と人間社会の進んで行く方向を指示し、暗示し、その進路をじゃまするものを否定しているということだ。幼年文学であっても、これは例外ではない。読者の未分化の認識に即して、現実の正しい反映が形象化されていなければならぬ。
ぼくはこの作品が、未分化の認識に即して築きあげられていることを述べてきた。そのなかでの、注目しなければならない要素は、目に見えないきものであろう。アンデルセンの作品の中にも、ぼくはこれほどすばらしい空想は、ほかにはないものと思う。すばらしいというのは、かくれみのという昔の産物が、ここでは近代化されているからだ。子どもの心理、経験に即して物語は展開する。
「一日じゅう一時間ごとに」きものをきかえていた皇帝をめぐる人々の腐敗が目に見えないきもの、つまりぺてん師の出現によって明らかにされる。「正直者」と信頼される大臣も役人も、すべての人々が「ばか者と思われたくない気持」で行動する。彼らの行動の原因は虚栄心でしかない。
この腐敗に、原始的な健康さを持った人間、ぺてん師が対比される。このきものを利用するペテン師は、人をだます自分の行動について何の罪も感じない。からのはたに目を見はる大臣に向かって「いかがでございましょう。ひとことも、おことばがございませんが」とさいそくするずぶとさを持ち、皇帝にむかって「このおめしものは、ちょうど、くもの巣のように軽うございます。それゆえ、おめしあそばされても、ほとんど、めされていないのと同じにおぼしめすことでございましょう」という知恵を持ち、ろうそくをあかあかとつけたなかで、大きなはさみで空をたって人をだます周到な用意があり、時に応じては、金を請求する。彼らには、皇帝を愛し敬う気持もないかわりに、恐れも怒りもまったくない。ただ、力と知恵が人生の勝負を決定する。
このぺてん師によってこそこの作品は健康である。ぺてん師は、表面的にはともかく、実質的には、皇帝と対等である。こうした対等観の上に立ち、力と知恵によって人生が決定されること――人間社会発達の、人間が生きていくための根本的原理であろう。そしてまたその原始的認識が幼い子どもたちにはぴったりしたものだ。対等観も、力と知恵による人生の決定も、太古の人間の考え方ではなかったろうか。
ぺてん師と対比されることによって、腐敗した人びとの姿は、あざやかに描き出される。もともと、宮廷の腐敗と、ぺてん師の活躍とは、無関係のものではない。ぺてん師的健康さをもった人間の活動するところ、常に既成の秩序はくずれようとしている。この作品は、くずれていく人々に照明をあて、ぺてん師によって来るべき人間があることを暗示するのだ。
そしてこの虚栄心のとりことなった人々、自分自身の目に自信を失った人々は、宮廷の人々である。この人々が、なぜこのように堕落したかを、現実の場で考えれば、これは宮廷の生活に原因がある。働きもしないで、ただ租税の上にあぐらをくんでいる生活が人々を堕落させたのだ。きものを着飾り、うそをつくという虚栄的現象は、当然虚栄心から起こったものだが、この心を育てあげたものは皇帝の生活である。そしていま皇帝はその生活のためにその生活をつくりだした自分の力を失いつつある。前に皇帝の力、大臣の地位が描かれていないといったのは、このことをさすものだ。皇帝を、皇帝たらしめている生活は抜きにされているのである。
ぺてん師という形象によって、子どもは人間と人間社会発達の基本法則を、ある程度学びとることができよう。だがそのぺてん師と対応し否定されるがわの人々は皇帝たちそのものではない。皇帝が描かれていないことはもう見てきたとおりだ。否定されるがわの支配層について、十分な形象化が行われていないのである。こうして基本法則はその反面を欠除する。

5 現実の形象的反映(2)
   ――ひとりの小さな子ども――
きものずきの皇帝という虚栄心から始まり、ぺてん師を描くことによって、おそらく作者の意図以上に現実を正しく反映したこの作品は後半に至ってくずれてしまう。「なんにも着てやしないや」ということばに、ぼくはアンデルセン全作品に通じる決定的な腰くだけを感じる。
まず、民衆は「ばか者と思われたくない」だけのものとしてしか描かれないのは、もう、言ってきたことだ。それにくらべて、「なんにも着てやしないや」という子どもはばか者と思われたくない気持は持っていないと考えられる。このことばは、皇帝たちが見えないきものを見えるといい、おとなたちがほめそやしている際、出されたことばとして価値がある。だが、その気持はぺてん師の原始的健康さとは異質のものである。ぺてん師には意志があるが、この子どもは意志をもたない。
このことばが生まれてくる経過を考えてみよう。皇帝が新しい着物を着て行列する。――それを見ようと、胸をおどらせて子どもは待っている。皇帝がなにも着てないので、驚き、失望する。子どもは、けっして「王さまははだかだ!」とさけんだのではない。「なあんだ」と失望したのである。続いて「なんにも着てやしないや」と失望のあまりのことばが思わず口をつく。
もちろんこうした偶然も世の中を動かす働きの一部である。子どもは、皇帝の新しい着物への期待を裏切られた。この次はもう期待しないであろう。だが、この偶然が世の中を動かしていく最大の原因となるであろうか。
さきにもいったが「なんにもきてやしないや」ということばが成立するには、皇帝の無力さが前提となっている。この作品ではぺてん師は、魔法使いにひとしい。彼らが皇帝をだまし、魔法をかけることができたのも、皇帝が無力なためであった。そこで皇帝の無力さの原因をはっきりさせることが、魔法をとくことになる。この皇帝の仮面をはぐものを現実について考えれば、当然、民衆である。
ただの、うごうの衆ではなく、目ざめた民衆である。作品のなかでは、これはひとりの小さな子どもだが、この子どもは、ぺてん師がかけた魔法をとく者、つまり世の中の原動力だから、ぺてん師以上に強力な存在でなければならぬ。子どもは、皇帝を批判するとともに、ぺてん師をも批判するものとして描かれなければならないのだ。
だが、子どもは、ぺてん師よりも大きい存在として描かれていただろうか。子どものことばは、ただ偶然というだけではない。このことばの底には、皇帝のきものを期待する心がある。きものを期待しなければ、驚きも、失望もない。もしもこのことばが、おとなたちに対する反ぱつの気持、あるいは皇帝に対する反ぱつの気持から生まれたものなら、この子どもは、けっして「むじゃきな子ども」ではない。そして皇帝のきものを期待する心は、ただ美しく、珍しいきものを期待するだけの心ではない。皇帝のきものだからこそ、いっそう期待する。ここには皇帝への期待が含まれているわけだ。
「なんにも着てやしないや」ということができるのは、皇帝の無力さが前提となるが、またそれだけではない。皇帝がまったく無力であれば、皇帝を期待する心は生じない。皇帝を有力なものとして見、」それが裏切られてことによって、このことばは価値を持ったはずである。
このことばが生まれてくるのは、子どもの皇帝に対する親近感、対等感からである。皇帝と同じく主権者である王について、当時の子どもの認識を考えれば、アンデルセンの「旅の道づれ」のなかでは、次のようになる。結婚を申しこむ若者たちになぞをかけ、とけない時には殺してしまう王女をもった王は、「おきのどくなおとしよりの王様です」と描かれる。そうしてこの王は、ただの旅の若者ヨハンネスが、こつこつとドアをたたくと、「おはいり」と声をかけ、手にもった宝珠をわきの下へかかえて、ヨハンネスと握手する。王と民衆との距離は、非常に近いものといえよう。
また、ハンザ同盟の人々がコペンハーゲンにせめよせる。君主のエリク王は逃げていく。ただひとりコペンハーゲンにとどまった王妃フィリッパは、どうしていいかわからず、ただわいわいとむらがっている町の人々を励まし市民と百姓を集めて敵とたたかう。この王妃が「王の心と魂をそなえている人」と「おじいさんの絵本」ではいわれている。
王は民衆に対して保護という責任をもち、民衆は、王に対して親愛感を持つといえよう。だから民衆は、王たるにふさわしくない王に対して抗議することができる。王と民衆は、こうした意味で対等である。ただし、この対等感は、ぺてん師が皇帝に対して対等であったということとは異質であることはいうまでもない。
皇帝と王との差はあるにしても、皇帝にまで、この考えを広げることは不可能ではなかろう。前にいったように、この作品では皇帝に対する未分化の対等感が底にある.この親近感・対等感の上に立って、子どもは「なんにも着てやしないや」ということができる。そこで逆に、この子どもの気持は人格すぐれた王に対しては、賛美のことばをはくかも知れない危険性をはらんでいる。
このことばを生んだ子どもの内部的条件は、実は変革されなければならないものであり、この子どもの存在は、ぺてん師にくらべてずっと小さいものということになろう。子どもがこの作品から学びとるものは、後半よりも前半に集中されているのである。
ところで、「なんにも着てやしないや」ということばに価値があるのは、ひとつには、このことばが皇帝の人間的無内容を示し、ひとつには、皇帝はじめ人々が、きものをほめているのに、ひとりの小さな子どもがこのことばをはいたからである。今まで述べてきたことは、後者についてのぼくの考えである。これをひと口にいえば、人々が見えない着物を見えるといっている場合、見えないとほんとうのことをいうにしても、その言い方に強弱――自覚した言い方とまだ目ざめない言い方、さまざまの言い方があるうち、この作品は、非常に弱い言い方しか取っていないということになる。だが問題は、これでは終わらない。ひとりの小さな子どもの発言のもうひとつの価値、関さんが平民的真理とよぶそのことばそのもの、皇帝の無内容をついたことばが、読者である子どもにどう理解されるかということが、ぼくのもっとも大きな問題だ。この問題は、ぼくが象徴童話(アンデルセン、未明などの童話をぼくは象徴童話とよんでいる。日本では、「ふしぎの国のアリス」「ピーター・パン」「ちびくろ・さんぼ」なども同じように「童話」とよぶが、これらイギリス童話はアンデルセンなどとはまったく異質のものと考えられ区別する必要があると思っている。)とかりに名づけるものの核心にふれているからである。

6 性格・事件・主題の単一性
「なんにも着てやしないや」ということばを出したのは「ひとりの小さな子ども」であった。おとなたちが、みんな皇帝のきものをほめている際、なぜ、この子どもは、ほんとうのことを言えたのであろうか。作品によれば、これは、むじゃきだったからにほかならない。
子どもという存在がむじゃきであるかないかも問題だが、今、ここで、ぼくが考えたいのは、それよりも、むじゃきでありさえすれば「なんにも着てやしないや」と言えるかということだ。つまり「なんにも着てやしないや」という行動を起こさせる原因が、子どものむじゃきさだけと考えられるものだろうかということだ。
さきにぼくは、この行動を、皇帝のきものへの期待が裏切られる際、起こったものと考えた。思ったことをかくすことのできない子どもの未発達さを、むじゃきと考えれば、むじゃきさは、この行動のひとつの原因ではある。だが、それだけではなく、少なくとも、この子どもは失望していた。人間の行動を、現実の場で考えれば、これは、かならず複雑な原因・条件によって起こる。だが、この作品のなかの子どもは、失望という、たったひとつの原因でしか動いていない。他の原因は無視されている。
さらに、この際、おとなたちがきものをほめるのは、皇帝の力を恐れているからではなく、他人にばか者と思われたくない気持からだと、前に述べたことを考え合わせよう。皇帝の無力さは、作品のなかには書かれていない。いくら、むじゃきであれ、皇帝の力の恐ろしさを教えこまれた子どもは、そう簡単には「なんにも着てやしないや」と言わないはずだ。皇帝の力の状態も、この作品では、無視されたのである。皇帝を形成する諸要素の重要な部分が切りすてられている。
ここで、ぼくは、前に述べたこの作品の価値―えらい皇帝たちもうそをつき、まただまされるということを、もっと深く限定しなければならぬ。この作品では、皇帝ということばに含まれる重要な概念は削り落とされ、ある一面の性格―虚栄的性格だけしか残されておらず、あるいは与えられているからだ。この作品の中の、皇帝、大臣たちの行動から、もしも虚栄的行動を取り除いたら、あとに何が残るだろうか。残るものは、何ひとつないのである。そして、子どものむじゃきさは、虚栄を裏返しにしたものだ。この作品が言おうとすることは明らかだ。虚栄は素朴・童心に敗北するということである。
ふたたび、ぼくは、関さんのことばを否定しなければならぬ。虚栄が皇帝という形象を仮り、素朴が民衆の子どもという形象を仮りたことを考えれば、この作品は「特権階級の虚飾を見破る平民的真理の目」を反映したとはいえるが、これは作品の内容ではない。この作品が作られるには、このような歴史社会的条件があったということで、作品周辺のできごとを、関さんは、作品内部のものと見るあやまりを犯している。虚栄は素朴に敗北するという基本思想に沿って「えらい皇帝もうそをつき、だまされる」ことが形象化されているわけだ。その形象化の方法について、ぼくは疑いを持つ。皇帝のきものずきは、皇帝の虚栄を「象徴する」が、たとえば「トム・ソーヤーの冒険」のトムのへいぬりは、トムの機知を象徴するわけではない。ふたつの形象は、異質のものである。
へいぬりは、トムが、彼の性格の一部として機知をもっていることを読者に示す。同時に、トムのずうずうしさも読みとることができる。だが、皇帝、大臣の性格は、虚栄という一言につきる。彼らの行動は虚栄以外は意味しない。
また、トムの行動は、機知とか、ずうずうしさという一般的性格を示すだけではない。仕事をサボりたいということ、あるいはベンの持っているりんごをかじりたいということ、その他さまざまなことが、ひとつの行動のうちに重なりあっている。常に複雑な要素を含む人間の行動が「トム・ソーヤ―」には描き出されているわけだ。
だが「皇帝のあたらしいきもの」では、これが単一のものとなる。人間を形成する諸要素のうちのひとつが取り出され、それがいのちを持って動いている。この作品の登場人物は、すべて一面的な性格しか持たず、その人物がひきおこす事件も、常に一面的なものでしかない。作品の基本思想に沿わない事件、人物の他の要素は、みんな切り落とされてしまっているのである。この時、作品の主題も単一にならざるを得ない。基本思想はめいりょうにぼくたちの前に浮かびあがる。

7 観念の象徴
皇帝が単一の性格しか持たないことは、この皇帝が独自の個性を持たないことを意味する。着物ずきという皇帝の属性は、きものずきという行動そのものをさしているのではなく、虚栄をさしているにすぎない。「ひとりの小さな子ども」は、子どもでありさえすれば、ヨハンネスでもゲルダでも、優等生でもいたずら小僧でもかまわない。
単一の性格は、同時に一般的・普遍的である。皇帝は虚栄的人間一般を意味し、ひとりの小さな子どもは、子ども一般を意味する。つまり一般を代表する。彼らは、虚栄という自然的人間の一要素で、童心あるいは素朴という自然的要素で、一般の人々につながる。虚栄も童心も人間一般の共通する属性である。ぼくたちは、トム・ソーヤーが少年であることにおいて少年たちを代表すること、すなわち全人間的存在という点で、特殊と普遍との結合が行われたことと、「ひとりの小さな子ども」では、人間に共通する属性という点で、特殊と普遍との結合が行われたことを区別しなければならない。
虚栄が素朴に敗北するということ―これも属性である。歴史が進んでいくなかの、ひとつの事象に付属したものである。この主題も、やはり一般的・普遍的である。
と、すれば、この作品は、事象に付随する属性を書いたものだ。ここでいう事象は、たとえば茶わんをひっくりかえしたというような事象ではない。始めがあり、終わりがあって、ひとつのまとまり――一貫する流れを持ったものである。茶わんをひっくり返したことは、ひとつの事象を構成する細部のできごとと、ぼくは考える。だから事象は、常に過程を含んでいる。ここで、ぼくたちは、この作品が属性を書くという時の、属性ということばの意味を、さらに限定しなければならぬ。事象の属性は、事象の過程のうちに一貫して存在するものでなければならぬ。ひっくりかえすという属性は、ここでいう属性とは意味を異にする。
ここでいう属性は、観念と名づけることができよう。事象に一貫して存在するものは、法則である。事象から抽出された法則は、観念という形をとって存在する。この際注意しなければならないことは、法則はひとつだけ存在するのではなく、常に他の法則とからみあって存在していることだ。多数の法則――観念のなかからひとつの撰択されて「皇帝のあたらしいきもの」は成立する。
こうして、この作品は、単一の観念である。観念は、元来過程のなかにあったものだが、抽出されて、一般的・普遍的なものになるト、その過程を失う。過程は、時間・空間に制約されるものだが、一般的なものは、その制約を越えて存在する。虚栄は素朴に敗北するという観念は、古今を通じてあやまたず、中外に施してもとらざる原理として呈示される。

8 偶然の並列と単一の次元
作品全体が一個の観念であるということは、分析不可能な一個の形象であるということだ。時間的過程を持たないこの形象は平面的であって、絵に似るといえよう。作品のなかの人物も事件も、同時的に画面を構成する一本の樹木、一軒の家と同様な存在である。絵にあっては、画面を構成する諸形象は、主題を形成するに好適な角度から見られた存在であって、その角度からそれるものは、その存在自体のどんな重要な部分でも切りすてられる。作品を構成する諸事件は、偶然の集合という現象を呈するようになるわけだ。人間の行動の諸条件の重要な要素が脱落する極端な例は夢である。夢では、ぼくたちが東京の町を歩いていたにもかかわらず、一歩、横丁にはいればいなかの風景が展開することがある。距離という条件は脱落したのである。ただ夢の場合は、一貫した主題は持ち得ない。
だが、夢の場合、距離が無視されるだけではなく、ふたつの環境が重なりあったことに、ぼくたちは注意する必要がある。偶然が集合する際、環境は重なりあうものである。むじゃきさは、子どもに内在する性質である。この性質が行動化する場合、まず子どもの個性によって、その行動には差ができる。次には、その性質を発動させる外部条件、環境によって差ができる。
だが、この作品では個性は無視され、「ひとりの小さな子ども」は子ども一般と重なりあっている。その外部条件はどうだろうか。皇帝のはだかの行列が、子どものむじゃきさを行動化させる外部条件だと、一応考えられよう。だが「ひとりの小さな子ども」と、他の子どもとの行動の差は、この作品では考えられない。行動に差がないことは、個性と、個性をめぐる環境のふたつが無視されていることを意味する。「平民的真理」のことばを出せるようになっている子どもの環境は、実際は、他の子どもの環境と差があるにもかかわらず、同じひとつの環境としてしか示されない。このように重複した環境が、皇帝のはだかの行列である。
皇帝がはだかで行列することと、子どもが「なんにも着てやしないや」と言えるまでになっていることは、元来かけ離れたことである。もともと違う次元の上に起こって、ある一点で結びつくふたつの事件が、単一の次元の上に並んでいる。もっともふたつの事件は、根底が共通するものを持っている。宮廷の腐敗と、市民のぼっ興はけっして別々の現象ではない。だが、この大きな環境のなかで、皇帝がはだかで行列することと、子どもがそれをさしてはだかだということは、おのおの独立した環境と個性によって生じるできごとである。
こう考えてくれば、このふたつの事件は、実に、おたがいに偶然のできごとでしかない。その底には通じるものがあっても、どのように通じるかということは、作品のなかでは述べられない。ふたつのできごとには相関関係がないといえよう。
こうして独立した事件、それも主題を構成するのに都合のよい立場から見た事件が結びついて作品を作りあげる。皇帝が見えないきものをほめることと、大臣が見えないきものをほめることとは、おのおのの個性と環境により差があるはずで、これもおのおの違う次元の上のできごとなのだ。しかも宮廷腐敗という大きいできごとを形作るものだから、おのおのには相関関係があるはずだが、作品に現われたかぎり、ふたつの事件は有機的なつながりを持たない。偶然のできごと、独立の事件が、単一の次元の上に並列しているのが、この作品の構造である。そして、これらの事件には、ひとりの皇帝という存在が、虚栄的人間と重複しているように、常に大きい環境と小さい環境が重なりあっている。作品全体も同様である。虚栄が素朴に敗北することと、宮廷勢力が市民勢力に打ち破られることが重なっているのだ。この結果、ひとりの人物、ひとつの事件は、かならず2重の意味を持つ。そのもの元来の意味と、そのものからひき出されて作品を構成するようになった意味との、ふたつのである。この重複を、ぼくは象徴童話の二重性と呼ぶ。
今まで述べてきたことは「皇帝のあたらしいきもの」に限ったことではなく、象徴童話一般について考えられることである。ただし、未明童話は、気分的な象徴に近いものである。

9 未分化の心理と作品構造
ここまで述べてきたことによって、ぼくはこの作品を攻撃しようとは思わない。前にもいったように、児童文学作品の価値は、その読者年令層、つまり理解能力の制限内で考えなければならないものであり、たとえば時間・空間の制約がないことは、一般的には、未分化の認識を持つ小さい子どもに適したものである。
なお、つけ加えれば、小さい子どもには因果関係、事と事との相関関係は理解されない。田中・ビネー式のテストには、九歳級の問題として次のようなものがある。「次郎さんは大きな物音を聞きました。そして急いでおもてに出てみました。道には、一面に釘がちらばっていて、自動車が道のそばにとまっていました。次郎さんが聞いたのは何の音だったでしょう。」この問題の合格率は、八歳では五六%、七歳では三〇%、六歳では一五・五%という(「児童心理学」山下俊郎)
次のような小学校一年生の作文がある。題は「牛がにげた」である。
ぼくは「がっこうやすみやさかいに、ぼくもたんぼへいか」
というと、おかあちゃんが、「うえのたやで」といいました。
上のたまでいったら、じどうしゃがしんみちをとおりました。
じどうしゃと、ばたこと、はしりやいしていました。じどうしゃが、いっとうでした。
おとうさんが、たんぼでうっていました。
おかあちゃんが、あとからきました。おじいさんが、なわのさきで、うしのせなかをなぐっていました。おじいさんは、たんぼのなかへいれてきました。
おとうさんが、うしをにがしました。
みせのいけへ、三べん、ほたえました。おとうさんは、うしをおいつけました。(後略)
(岸和田市山滝小学校文集)
これからあと、牛が逃げたことが書かれているのだが、ここまで見ればわかるように、牛が逃げたこととは、なんの関係もない偶然のできごとが並んでいるのである。未分化の心理にとって、偶然の並列は、すこしも偶然ではないということになろう。事と事との相関関係は、彼らの理解能力を越えたものである。偶然の並列ということは、「皇帝のあたらしいきもの」が未分化の心理に即したものであることを、いっそう深く確認したことになる。
子どもの世界は、自分を中心とした単一の次元に展開する。友だちが、自分の父を「おじさん」と呼ぶと、「ちがう。おとうさんだ」と言いはる現象をみることがある。子どもは立場を変えて、物を見ることができない。他の立場、他の次元のできごとも自己中心の次元に転換されているわけだ。偶然の並列はこのようにして生まれる。すべてが単一の次元の上に置かれるのだ。
また幼児は、物の属性によって、その物に命名する。子どもに「いぬ」を教える時、さいしょから「いぬ」ということばを教える親は少ないだろう。いぬは「ワンワン」であり、にわとりは「コケッコ」である。子どもには、このほうが理解しやすいのである。これは、ことばを教える際のことだが、子ども自身が命名することについては、電車のなかで回転広告を見て、親が「くるくるまわるでしょう」と言ったら、「くるくるまわる」が名となったという例がある。(宮城音弥編「言葉の心理」のうち「言葉と人間」築島謙三)
これらの例から引き出されることは、強烈な印象を子どもに与える属性が「名」となるということだ。だから「ワン」と鳴き、「くるくるまわる」特徴的な属性が存在しないものの場合、全体的印象によって子どもは命名する。「くるくるまわる」のも全体的印象である。東京大学付近のけしきを見た子どもが、印象が相似するため、中野の近くの野原で、「ああダイガクだ」といったということを築島氏は述べている。この時、属性と物そのものが二重に重なることになる。
子どもの命名作用について、ぼくは考えたが、文学作品も、同様に命名作用の一種である。単語も作品も、「指示し」「意味づける」機能には差がない。全体的印象の、ふんい気、気分を再構成する際、気分象徴の童話が生まれる。特徴的な観念を再構成する際、観念象徴の童話が生まれる。共に未分化の心理に即したものである。

10 生活経験
今まで、ぼくは、象徴童話の構造が未分化の心理に適していることを述べてきた。だが、その中心となる観念は子どもに理解でき、感動を起こさせるものであろうか。単一の次元の上に、偶然の事象が並列する場合、これらの本来の意味を失っている。その一部分だけが生かされている。その一部分の意味は、伝達されるはずの観念に対して、現象と本質という関係を持つ。「象徴」ということは、このふたつが分離しないで同一であることを意味する。読者が、皇帝は、皇帝であると共に虚栄的人間であり、きものずきは、きものずきであると共に虚栄的行動であることを読みとった際、この作品の意味と感動は伝達される。だが、作品に現われているものは、まず事件である。その事件から、ぼくたちは虚栄を読まなければならない。その場合、ぼくたちは、その事件が虚栄に通じ、虚栄を意味していることを知らなければ、虚栄を読みとることはできない。つまり、きものずきが虚栄を意味することを知る人々にでなければ、この作品の意味は伝わらない。
同様に、皇帝を知らなければ「なんにも着てやしないや」ということばは、ただ現象をさすにとどまる。社会的地位の高い人間たちのなかにも、ただきものを着飾ることしか知らないような人々がいることに気づいている人間、彼らが、その地位を維持するためには平然とうそをつくことを知っている人間―この人々にとってこそ「なんにも着てやしないや」ということばは、深い意味を持つ。子の人々は、多くの経験により、これらのことを知っているおとなと考えられる。子どもには、これだけの経験がない。
このことばに感動するのは、おとなであり、おとなは自分のうちの未分化の心理、残存する児童性で感動すると考えられる。虚栄の敗北という次元は、おとなでないと理解できない次元である。
そして、ひとつの事件に含まれる二重の意味の、相互の距離を考えれば、皇帝がはだかであることと、皇帝が無内容であることとの距離は非常に大きい。これは、きものずきから虚栄を感じとることにくらべて、むつかしいものといえよう。むつかしいというのは、つまり生活経験が深くなければ、このことばの意味はわからないということである。だから、この作品には小さい子どもにもわかる部分――これは、ぺてん師にもっともよく現われている―と、おとなでなければわからない部分が同時に存在するが、中心点を「なんにも着てやしないや」ということばに置いた時、これはおとなに残っている児童性の作品ということになる。
そして、ぺてん師登場の前半部にも、やはりおとなでなければ理解できない部分がある。おそらく、少し大きい子どもでなければ、きものずきから虚栄を発見することはできないだろう。「もし、自分がばかか、皇帝の位にむかないようなことがあれば、きものを見ても見えないという話」に心おちつかない皇帝の姿に、皮肉と皇帝というものの本質を感じとることができるのは、おとなでしかない。
作品全体の構造は未分化の心理に即したものでありながら、それを構成する形象は、おとな的なもの、子ども的なものが入りまじっており、作品の中心となる部分はおとなのものである。ぼくは、前に仮定した読者年令を改めなければならぬ。この作品は、本質的にはおとなの文学作品である。

11 ことばの構造
あるいは、次のような疑いが出るかもしれない.「なんにも着てやしないや」ということばが、皇帝の無内容、無価値をさすものなら、読者は、逆に、そのことばから皇帝が無価値であることをさぐりあてるのではないかという疑いである。ここで、もういちど、単一の次元に転換されて生まれる、子どもの言葉の性質を考えてみよう。
小学校二年生に次のような詩がある。
米を100つきました。
あせが100でました。
ひとつのことばに、ぼくたちは、汗が百粒という表面的な意味と、汗がたくさん出たという深い意味と、次元の違ったものの重複・転換を見ることができる。百は本来の意味を失い、一部分の意味が生かされる。そして、大切なことは、ぼくたちは、汗の百を、汗がたくさん出たという意味にだけではなく、感動も共に受けとっている。
子どものことばには、多くの場合、感動が含まれているのだ。全体的印象によって彼らのことばは成立するが、印象は、常に主体そのものの感動を含んでいる。彼らのことばが具体的であるということは、個別的であるということにほかならない。この時発言の条件が重大な役割をはたす。ただ「あせが100でました」だけでは、なんのことか意味が通じにくい。「米を100つきました」という条件があって、ぼくたちは感動と意味とを受けとることができる。
「みかんの炭」―といって、これが何を意味しているのか、わかる人は少ないだろう。子どもがたどんをさして言ったことばである。
「謙有チャンはばんだいさんだよ。ばんだいさんは歩かないのよ」ということばの意味はどうであろうか。これは、新聞を取ってくるようにいわれた子どもが、それを拒否した際のことばである。
次元が転換・重複した場合のことばは、コミュニケーションの手段として未発達のものである。こうしたことばを理解し、こうしたことばに感動するには、その発言の条件を知らなければならない。そして「なんにも着てやしないや」ということばも、次元の重複・転換による構造を持っている。このことばの理解は、その発言の条件、つまり皇帝の無内容が、どれだけ読者の子どもに理解されているかということに比例するといえよう。と、すれば、問題は、ふたたび、子どもの生活経験に帰っていく。生活経験の広さ・深さにともなって、皇帝の無内容は理解の度が違ってくるのである。そして作品には、皇帝の無内容は、うそをつく、だまされるということしか書かれていない。ひとりの小さな子どものことばから、読者の子どもが受けとるのは、皇帝がぺてん師にだまされたことの確認でしかない。けっして皇帝の正体を発見したものではないのである。

12 象徴童話
今まで、ぼくが述べてきたことは「皇帝のあたらしいきもの」一編に限られたものではない。アンデルセンの他の作品、未明、広介童話を初めとして、生活童話といわれるもの、現在生産されている作品にも、多かれ少なかれ共通しているものである。ここで述べた「皇帝のあたらしいきもの」の構造は、象徴童話一般、それから象徴童話を抜け切れないでいる現代日本の童話の多くに適用されるものと、ぼくは考えている。象徴童話は、人間・事物を、その要素・属性においてとらえる。この時、当時環境も要素・属性によってとらえられている。だが近代文学の主流である小説は、環境と共に、全的な人間をとらえる。象徴童話に描かれる人間像は、かならずめいりょうな性格を持たず、従って新しい性格の創造によって新しい世界を発見した小説とは、その機能を異にする。人間についての知識、読書の際その人間に同化することによって得られる新しい経験は、象徴童話の場合、わずかしか行なわれない。象徴童話は、既得の経験の深化の方向へ働いていくものである。環境と人間とを、違った角度から、指示し、意味づける機能を、象徴童話はもっていない。ただ、新しい意味の存在を、読者の子どもに知らせるだけである。
だが、その新しい意味を、どのような立場で獲得することができるかということ、読者の現在の立場から違った立場へ、成長し、発展していく経過は描かれない。環境と性格の設定が行なわれない時、要素・属性のみでは、発展の契機はなく、単一の次元の上にとどまらざるを得ない。
象徴童話は、こうして常に閉鎖的である。それは、外へ向かう新しい経験を構成するに至らない。人間の内面世界を分割し、深めていく象徴童話の方法は、単なる自己満足の道具に転落する可能性を多分にはらんでいる。「皇帝のあたらしいきもの」に帰れば、この作品は、虚栄が童心に敗北すればよいというアンデルセンの願いを書いたものと考えられる。だが、どのようにして、童心の持ち主は虚栄的人間を打ち負かすことができるのか、その方法は作者にもわからず、読者にも伝わらない。自ら書いて、自ら慰めるだけのことでしかないのだ。ただ、虚偽は敗北するという健康な考えは子どもがまだ小さいころから植えつけておくにかぎる。皇帝がたいして偉くもないこともだ。しかし、この作品は、虚偽が正直(童心)に敗れることを、人間像によって明示しない。人間像を描くことにこそ、作品の機能をじゅうぶんに発揮する条件である。幼い子どもは、作中人物になり切って本を読む傾向を持っている。子どもは、その人間を知り、環境を知るようになる。小さい子どものものとしても、象徴童話の機能は小さいと考えられる。だから、幼児的論理を失った少年たちが、いわゆる「童話」に目を向けようとしないのは当然である。類型的であるにしろ、人間像めいたものを登場させる通俗少年少女読み物がさかんになる理由のひとつは、ここにある。常に新しい経験を求める子どもにとって、一語の文、一個の観念に近い象徴童話がどれだけ役にたつだろうか。
象徴童話が、児童性の文学であったため、児童の文学に代用することができたからといって、今では、ぼくたちは、この方法をそのまま継承するわけにはいかぬ。もちろん、本質的にはおとなの文学であったにしろ、子どもの認識に即して現実を正しく反映した部分も、象徴童話には少なくない。だが、その部分では常に人間が顔を出している。たとえば、この作品のぺてん師である。ぺてん師はちえをもち、ずぶとさを持つ。個性を持つには至らないにしろ、単一性からはみ出た存在である。このぺてん師の働きを考えた場合、この作品には、ある程度、事の過程―人間と人間とのぶつかりあい―が加わってくる。すなわち、ぺてん師と皇帝たち、ぺてん師とひとりの小さな子どもには相関関係があり、皇帝の力が失われていく過程と、失わせる者の性格を、子どもは自分の認識方法に即して学びとる。そして、ぺてん師の性格はいきいきとしたものであっても、皇帝の性格がじゅうぶんでないために、現実の反映が一面的にとどまったことはすでに述べた。
「皇帝のあたらしいきもの」は、象徴童話のうち、もっとも象徴童話らしからぬ部類に属するものといえよう。未明童話はこれにくらべてずっと象徴的である。そして、今日、発展・継承しなければならぬ点は、その象徴童話らしからぬ部分である。つまり、性格を持った人間像を環境と共に描くことを、ぼくは主張する。
(日本文学・一九五四・六月・および八月)
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