『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

  批評の発展を

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 本誌時評を,いぬいとみこ・神宮輝夫・三木卓らとともに書くことになったが,いざ書こうとして,つくづくと感じるのは,今日はまた時評も困難な時代だ,ということである。
 たとえば,この一ヶ月にぼくがかかわりあってきた児童文学的ことがら(?)をふりかえってみると,まず七月二十四日に日本児童文学者協会・児童出版美術家連盟有志など,子どもの本関係九団体による「ベトナムの子どもを殺すな! ベトナムと私の今」の第一回集会がひらかれた。
 八月三日,児文協拡大常任理事会。議題は,本年度青少年読書感想文コンクール課題図書『ひとりぼっちの政一』について,和歌山市特殊教育研究会の鳥居俊二氏ほかが,この本を「課題図書から外すこと」への協力を求めてきた件,であった。
 八月八・九・十日,岐阜県下呂で「日本子どもの本研究会」の第四回「子どもの本と児童文化講座」がひらかれ,ぼくは創作児童文学の分科会に砂田弘とともに司会者として出席。
 そして,十一日,ぼくは岡山県津山で新聞を買って,那須田稔の事件――長谷川四郎作品の盗用を知って,おどろきあわてた。十四日,その件についての児文協緊急理事会――。
 このうち,どれをとってもこの時評ページは優にうずまる。だが,個々の現象はバラバラのまま,というか,あるいは見なれた世界の姿をしか,ぼくの前にあらわさない。世界はもっと総合的なもの,あるいは汚染された空気の匂いをまきちらしながらも魅力にみちたものであるはずなのだが。
 ぼくは自分のおかれている立場を,つくづくと考えてしまう。ぼくは去年五月,『雲取谷の少年忍者』を出して以来,一年あまり,新しい作品を出していない。「雲取谷」の中でぼくは,はじめ暗闇の中をふたりで歩んだ兄弟が,物語のおわりでは異なる道を歩こうとしていることを書いた。 
 この二つにひきさかれた兄弟が,ぼく自身の姿である。新しい創作方法はまだみつからず,というより,その実験をこころみるゆとりもなく,かつての創作方法(それも完成したものではなかった)が身をはなれつつあることを感じながら,その古い創作方法を必死につなぎとめて,出版社との約束(それはぼくにとっては子どもへの約束でもある)をなんとかしようとしているのが,現在のぼくである。
 これを批評におきかえるなら,古い批評の方法にはあき足りず,新しい批評の方法はまだみつからない,ということになる。時評困難なのは,ぼく自身のせいなのかもしれない。
 すなわち,ぼくはまよったまま,二つにひきさかれたまま,この時評をやっていくことになる。
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 現在,ぼくが気になっていることの一つに批評の問題がある。
 読書運動の急速なひろがりの中で,批評はかえって衰退していった。ある作品について批評が行なわれるというよりも,そのよさだけがムード的にひろげられていった。
 運動の拡大の中では,やむをえなかったことかもしれない。しかし,その結果は今日では「批評が二次元的になってしまう」(ことし児文協総会附設研究会での上笙一郎発言)というなやみをおこさせ,ぼくの場合は肉体的感覚と,人にむかって語ることばとの分離を感じるようになった。
 二次元的ではないことばをどのようにしてみつけるのか,つくり出すのか,その課題はとりあえず別にしておこう。まずは,状況対応としても,これではこまる,ということである。
 下呂集会では次のような発言があった。「『モグラ原っぱのなかまたち』や『チョコレート戦争』で,子どもたちは一応解放された。しかし,その次の段階の作品がない。」
 この発言の内容には不明確なところが多いが,ぼくの感じではたしかに「その次の段階の作品がない」のである。
 読書運動を支える層の一部はここまできている。ムード的"よさ"だけの強調では,もはや読書運動は進まない。さっき上笙一郎のことばを引いて「二元」といったが,実はその二元のうち一元,良書紹介的書評ではないものが少なかったこと,そのことをぼくは問題にしたいのである。
 その一例をあげれば『エルマーのぼうけん』である。『図書』八月号の座談会「幼児・おはなし・絵本」で,今江祥智が「ある作品を大人の目で読んだ場合に,"何だこれは"ということがあるわけですね。たとえば『エルマーのぼうけん』を読んだらつまらないわけですね」といい,『エルマーのぼうけん』を「物語の面白さを知る,入門的な本」として考える。
 この今江発言に対する松岡享子発言は,まるきりかみあわない。今江は,子ども――ひいてはおとな――の内的世界を満たすものとは,という,子どもの文学にとってもっとも根本的な問題を提出しているのだが,松岡にはそれが理解できないと見えて,「子どもが入っていきやすい形の文学の条件」だけをくりかえし述べるのである。
 これほど通じあわない,一方が一方を理解しようとしない座談会もめずらしいが,これもあるいは今日の児童文学の縮図なのかもしれない。
 ところで,ぼくは「エルマー」について今江説にまったく同感である。この「エルマー」の位置づけがあきらかにされないまま,いわゆる"良書"としてひろがっていったところに問題があろう。
 そして,この「エルマー」論をおし進めていったら,『ちいさいモモちゃん』はどうなるのか。それはひいては『チョコレート戦争』や『モグラ原っぱのなかまたち』に及ぶはずである。
 「エルマー」はその物語の形において,「モモちゃん」や「チョコレート戦争」はその展開の場において,読者の子どもと主人公とが同化していくものだと思う。しかし,今江のいうように,それはほんとうに子どもの内的世界を満たすものなのか,どうなのか。「モグラ原っぱ」も同様なのである。
 ぼくはこれらの作品の存在理由を否定しているわけではない,これらの作品の存在理由をもっとあきらかにすべきだ,ということなのである。下呂集会で「新刊・新刊といわずにいままでの作品をじっくり取り上げていったらどうか」という意味の発言もあったが,この発言もまた作品研究・批評とかかわりあっている。
 批評・研究を軸にして,読書運動は質的転換をとげなければならない,とぼくは思う。下呂集会創作児童文学分科会でもっとも充実した時間は,斎藤隆介作品をめぐって,批判派と肯定派とのやりときのときであった。

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 批評・研究の問題は,さきにいった『ひとりぼっちの政一』の件と,深くかかわりあっている。
 この本を課題図書からはずすことを要求したのは,前記鳥居氏のほかにも岡山大学児童文化研究会の秋月じゅん氏らがいる。その要求がなぜ出てきたのか,鳥居氏の児文協あての手紙によると,『ひとりぼっちの政一』は「年少の読者に特殊学級に対する誤った印象を与え,特殊教育の発展を著しく阻害するものと思われる」からである。
 この問題提起によってぼくはいくつものことを考えさせられた。その第一は,「政一」の問題は作者橋本ときおひとりの問題ではなく,現在の日本児童文学の書き手たち多くの問題であるということ。第二は,作品の評価の基礎をどこにおくかということと,その評価によって社会的行動に出ることの問題である。
 まず『ひとりぼっちの政一』について,ぼくの意見を述べておこう。この作品は,作者の政一に対する熱っぽい同情でつらぬかれていて,それが読者の共感をさそう。そして,それはまさしく同情であって,作者は物語のある部分では政一にぐっと近づくが,全体としては政一そのものに身をおいていない。
 具体的にいおう。政一の担任の橋詰先生にむかって,政一の祖母は「この子の悪いくせをあんた学校できびしくして,なおしてもらえんもんかね」という。橋詰先生はそれに答える。「この子が,どんな悪いことしたかしらんけど特殊にはいったからって,曲がった針金をのばすみたいにすぐには,なおるもんではないわいね。」
 この答で,橋詰先生は一見政一のがわに立っているようだが,実はそうではない。この答のかぎり,特殊学級(このことばは,ぼくははなはだきらいだが)は,「悪いこと」をした子を直す学級のように受けとられ,祖母と先生のちがいは,「すぐに」か「ゆっくり」かのちがいになってしまう。
 そして,作者と橋詰先生は分離しているときと重なりあうときがあり,ここは重なりあっている部分である。つまり,この答に対する作者の批判は出てこない。ここは,作者が政一のがわに身をよせようとして,そのように成りきれなかったところであろう。
 また,政一が百メートル競争で二等を取るところで,作者はこう書く。「特殊学級の政一が,二等をとった。これはみとめられていいことだ。だが,上田小学校の子どもたちは,政一のことをだれもかまわなかった。」
 しかし,どうして特殊学級なら,政一なら,「みとめられていいこと」なのか。作者の,上から下を見下す同情的態度が,おもわず顔をのぞかせている。
 以上は例にすぎず,こうした箇所があちこちにある。しかし,政一が母の日に「おばあさんありがとう」と書いた手紙を,橋の上でやぶりすてる。ここは作者が政一のがわにぐっと近づいたところだと思う。
 ところで,さっきの政一,二等のところでぼくがひっかかるのは,この特殊学級の子どもたちがほとんど(ひとりをのぞき),ちえおくれの子とは見えないことも,もう一つの原因となっている。政一のような子たち,それこそ普通学級に幾人もいるのではないか。
 こうした特殊学級があるならあるで,その成立事情と,それに対する作者の意見,また橋詰先生の意見を出してもらいたかった。
 この欠点は,作者が熱意のあまり,まだ熟さない素材を書いてしまったから,とも考えられるが,よくいわれるように,発こうするまで待てばなんとかなる,というものでもない。発こうということには,ぼくは疑いを持っている。
 この傾向――計算不足は日常的リアリズムの作品でことに目立つが,空想的なものにしてもごまかしやすいというだけのことである。現在出版されている作品群の創作技術の一般的水準は,少数の例外をのぞき,ぼく自身のものもふくんで,こういう欠点を見せないところまでには高まっていない。
 いまの点は細部の真実の問題だが,作品全体をつくりあげる方法は,政一の成長・変化という理想主義的方法(とでもいうか)によっている。しかし,ここにも計算不足がはたらいた結果は観念的成長となり,現実に目をむけた作者はあとがきによって,本文をうらぎらざるをえない。
 作品『ひとりぼっちの政一』を,ぼくは以上のように考える。では,その考えの上に立って,「課題図書から外す」ということについては,どう思うのか。
 まずは一般論だが,文学作品について,ある評価から社会的行動をおこすことには,ぼくは慎重でありたいと思う。文学作品にはつねに複数の評価が存在している。
 そして,鳥居氏の要求の基礎になっているのは,文学作品の社会的効用,有効性である。しかし,有効性を測定するとなるなら,鳥居氏の予想とは逆の結果――特殊学級について理解が深まった,という感想もまた出てくるにちがいない。
 ぼくは有効性の面よりも,むしろ作者の認識を,より重要なものとして考えたい。作品は作者の認識のあらわれであり,同情的態度にしぼっていうなら,現在この態度の持主ははなはだ多く,もしも課題図書から「政一」をはずしたところで,この認識――同情的態度はそのまま残る。問題は解決にむかうのではなく,温存されたままになる。
 この認識をかえるには,ゆるやかではあっても,批評をつみ重ねていくほかにないと思う。これを逆の面からいえば,批評なしによい本ムードで行くならば,読者の不満はある日きっと爆発するだろう,ということである。
 数枚の書評ではなく,数十枚の作品論などが,もっとどしどし出てこないものかと思う。ことに読書運動のにない手たちからだ。そうしたものがぞくぞく出てきたとき,読書運動は質的転換をとげるにちがいない。
 たとえていうなら,ブックリストは読書運動に欠けてはならない道具であった。その道具の一つに,ぼくはもう一つ,作品研究・批評集をつけくわえたいのである。
(『学校図書館』一九七二年九月号)
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