『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

  絵本と子ども 2 

 本誌が募集している「創作えほん新人賞」の本年度(一九七六年度)優秀賞になった『はせがわくん きらいや』のことからはじめよう。
 赤ちゃんの時,森永の砒素ミルクを飲んだために体が弱い子と,そのまわりの子どもたちのことをかいたこの絵本は,「はせがわくん」に腹を立てたり,はげましたりする子どもたちの人間的な気持が,ひしひしとぼくに伝わってくる絵本であった。
 今の絵本の世界のひろがりがこの一冊にはっきりと出てきている。これは砒素ミルクの被害者であった作者の自己形成の絵本である。作者は自分の幼時をふりかえり,友だちのありようを思いおこし,その友だちのことをあたたかく,その上冷静な目で見直している。ここで作者は自分の幼時にわかれを告げ,幼時は新しい自分の中に再生する――こういう自己形成の絵本に出あったのは,ぼくにははじめてのことであった。田島征三の『しばてん』にそれに近いものはあったが。
 では,この『はせがわくん きらいや』はどのくらいの年齢の子を対象にした絵本だろうか。ぼくは何度かこの質問を受けた。それに対するぼくの答えは「たぶん小学校高学年から。でも,一番よくわかるのはおとなじゃないでしょうか」である。この絵本の中の子どもたちは「はせがわくん」の弱い理由を「おばちゃん」から聞き,「なんで,そんなミルク飲ませたんや。おばちゃんのゆうこと,わからへん」という。このことば通り,幼い子には砒素ミルクのことはわかりにくい。しかし,おとなはこのことばを痛烈な批判として聞くことができる。この絵本は本質的にはおとなの絵本,ことに柔軟な精神を持つ自己形成期の人々にぴったりした絵本だと思う。
 世の中一般には絵本は幼児,幼年のものだという思いこみが強い。一方,これから絵本をつくろうとする若い人,絵本の愛好者には子どもが眼中にない場合がある。ここにあるずれが作品評価の混乱の原因の一つになっている。ぼくは単純にいえば,絵本という表現の形態があって,その表現の仕方や内容によって,絵本はおとなのものともなれば,子どものものともなる,と思っている。幼児ではよくわからないが小学校高学年ならよくわかる,という絵本も出てくることになる。
 なくなった岩崎ちひろの絵本,たとえば『あかちゃんのくるひ』など,やはり小学校高学年以上,おもにハイティーンの絵本であろう。ある発達段階にふさわしい児童文学作品があるように(というのはその年齢以上の人々がすべて読者たり得ることだが),ある発達段階にふさわしい絵本があり,そしておとなの絵本がある,と思う。
 ただ留保条件を一つつけておかなければなるまい。それはことばによる表現――文学作品と絵本との質的なちがいである。ことばにくらべて絵はおとなと子どものあいだの距離が小さい。もしも五,六歳児を読者対象にした場合,文学作品の表現はけっしておとなを対象にしたものと同様にはならない。しかし,絵はかならずしもそうではない。あるいはそのひらきは小さい。 
 また絵本の表現には単純化とでもいう要素がある。この単純化と,絵の持っているおとなと子どものあいだのひらきが小さいという性質,この二つによって,おとなの絵本が幼児に読まれる場合もある。谷内こうた『なつのあさ』はぼくの考えではおとなのもの――思春期絵本だが,これを自分の愛読書とした三歳児がいた。この子は他の絵本でもすべて汽車の出てくるものを好んだのである。
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 絵本という表現には単純化とでもいう要素がある,ということについてもうすこしくわしく述べておきたい。『はせがわくん きらいや』のことは,いわばおとなの絵本におとなのぼくが感動した例であった。一方ぼくは子どもの絵本に深く感動したことがあった。『おおきなかぶ』がそうである。この絵本は三歳から五,六歳までの子が読者の中心となる,典型的な幼児絵本といってよいだろう。この絵本におとなのぼくが心の底からゆすぶられた。
 おじいさんがカブを植え,大きな大きなカブになれ,と願う。カブは願い通りとてつもなく大きくなり,おじいさんが抜こうとしても抜けない。おばあさん,孫,犬,猫,ネズミが力をあわせてカブをひっぱり,カブはやっと抜ける。要約すればただこれだけの単純なストーリーのものにぼくがひしひしと感じたのは,このようにして人間は生きてきた,ということであった。
 最初に出てくるおじいさんの願い,これは生産への願いであり,次に取入れの労働がやってきて,みんなが力をあわせて働く。そして,最後に取入れの満足がくる。はるかな昔からの人間の願いと行動とが,この絵本にはじつに単純なかたちで凝縮されている。この人間の原理,人間の行動の原型,とでもいうものにぼくはひきこまれた。
 いうまでもなく,これは絵本という表現を通しての感動である。いま"取入れの満足"といったが,ここは文章では「やっと,カブは ぬけました」と述べられているにすぎない。ぼくが"取入れの満足"を感じるのは,抜けたカブをかこんでおどりあがって喜んでいるおじいさんたちの姿(絵に表現された)からである。最初にある生産への願いも,愛情こめたまなざしでカブの苗を見つめるおじいさんの姿なしに感じとれない。さっきいった人間の原理ということだが,ぼくはこの絵本のおじいさんたちの姿の背後に,生産を願い労働をくりかえしてきた層々と重なりあう幾百世代もの祖先の姿を見た感じであった。
 これが"単純化"の一例であり,大まかにいえば,すぐれた幼児絵本はこのようにおとなをも感動させる。こまかくいえば,子どもの絵本のなかにはこのように人間の原理,原型をとらえたものがあって,それはおとなも感動させる。『はなをくんくん』も原理をかき,『ふきまんぶく』もやはり原理をとらえている。原理,原型をかくのは絵本のあり方のうちの重要な一つだ,と思う。
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 すぐれた絵本は以上のようにおとなを対象としたものであれ,子どもを対象としたものであれ,おとなの心にも深く訴えてくるものである。では,これを逆にして,おとなが(も)感動する絵本こそすぐれた絵本だといってしまうと,どうだろうか。
 ぼくはこのいい方にはあまり賛成ではない。このいい方の中には,おとなの方が子どもより絵本を見る力がすぐれている,という見方がひそんでいて,子どもの絵本でありながら"子ども離れ"という現象が生まれてくる一因となっている。またこのことばはさまざまなおとながいることを無視している。おとなの中には子どものものの感じ方や考え方を忘れてしまっている人もいる。その人たちの評価の基準を子どもの絵本にあてはまることはできない。いささか極論に近いかたちでいったが,"おとなが(も)感動する絵本こそすぐれた絵本だ"ということばの内容は,もっと論理的に検討しなければならないだろう。
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 ちょっと見ただけでは幼児のものでしかない『おおきなかぶ』に人間の原理,原型がかかれていることをいったが,これに対して子どもの世界,子どもだからこそおとなよりもいっそう生き生きと感じることのできる世界をかいた絵本がある。
 『はけたよ はけたよ』はその一つの例である。幼児がその成長の過程で通らなければならない,パンツがはけるようになる喜びをこの絵本はかいている。ついこのあいだまでパンツがはけなかった子にとってはその喜びの確認,またパンツのはけない子にとってはやがて獲得できる世界の輝かしさを想像することのできる絵本である。残念なのはその輝かしい世界がもう一つ深味に欠けている点だが,子どもの成長の喜びを子どもの立場からかく絵本の一つであることにはまちがいない。『はけたよ はけたよ』は幼児の現実生活に密着したところのある絵本だが,『ぐりとぐら』は幼児の想像の世界と日常生活とが一つになった絵本で,やはり,"子どもだからこその絵本"にはいるものだろう。「このよで いちばん すきなのは おりょうりすること たべること」という,野ネズミのぐりとぐらは幼児そのものである。
 ぼくはさきに絵のことで,ことばによる表現にくらべて絵の場合,おとな子どものひらきはない,あるいは小さい,という意味のことをいった。これにかかわって田島征三がいったことだが,「子どもに親近感を感じさせる絵と,そうでない絵はあるだろう」ということばを思いだす。『ぐりとぐら』の絵はこの親近感を感じさせる絵に属する。
 内容についていうと,ものすごく大きいたまごを発見したぐりとぐらは,そのたまごを持って帰ってカステラをつくろうと思い,いっしょうけんめい考える。大きくてかごにははいらないたまご,では「かついでいこうか」「つるつる すべって おちてしまうよ」,では「ころがして いこうか」「いしに ぶつかって われてしまうよ」,二つの会話では幼い読者がぐりとぐらといっしょになって,いっしょうけんめい考えるにちがいない。そして,ぐりがぽんと手をたたいて,「それじゃ おなべを もってきて ここで かすてらを つくろう」というところは,幼い読者にはぱあっと世界がひらけていくところである。
 またカステラをつくってたべたあと,「さあ この からで ぐりと ぐらは なにを つくったと おもいますか?」という文があって,ページをめくるとそこには文字は一字もなく,たまごのからでつくった車にぐりとぐらがのっている。ここには子どもに期待感をもたせると共に,絵本の"めくる楽しみ"がはっきりとあらわれている。
 しかし,ふりかえってみると,この楽しみの世界はこれでよいのだろうか。料理することと食べることは人間の根元的な行動だが,それをこの絵本は幼児の遊びの次元だけでとらえた。そして,子どもは遊びの中で汗をかくものだが,この絵本には全身で遊びにぶつかって汗をかく子どもの姿はない。この絵本はさっきいったように幼児の世界の発見があるのだが,この幼児の世界は小市民的な幼児の世界へ傾斜している。
 『ぐりとぐら』が発表されたのは一九六三年十二月のことである。わが国が高度経済成長の時代にはいって,子どもの遊びも矮小化していくはじまりのころであった。そして,それまで,おそらくと思うのだが,幼児の世界をとらえたわが国の絵本はほとんど存在していなかったのではなかろうか。そのせっかくの発見――幼児の世界へふみこんでいく第一歩――がこの時期であったのは,子どもそのものを子どもの立場からかく絵本の発展にとっては不幸なことであった。時代の動きと関係あると思うが,『ぐりとぐら』での発見はその後深められず,『ぐりとぐら』そのものは想像するにその小市民性の故もあって幼児に愛される絵本となった。
 いや,これは時代というよりも,子どもそのものをかくことに関心をもたない絵本のかき手たちのあり方の結果,という方がよいのかもしれない。ぼくは子どもの世界にふみこみ,子どもをかくことによって,自分自身を表現するかき手,画家が出てくることを心から望んでいる。
 さきにいった『はけたよ はけたよ』的な絵本,これは幼児の成長過程のある時期のもので,一過程を素材にした絵本だが,この領域の発展はまだまだ弱い。たとえばこうしたものに挑戦してくれる人がほしい。そして,『ぐりとぐら』とはちがった子どもの世界がほしいのである。
(『絵本の本棚200冊』一九七六年月刊絵本一二月臨時増刊)


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