『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

絵本の構造を考えたい   古田足日


1 絵とことば
 絵本について、いくらかまとまったことを書くのは、これがはじめてである。そこで、この際、ぼくが絵本をどのように考えようとしているのか、ぼく自身が今後考えていくいとぐちをさがしてみたい。つまり、絵本をどのように考えているか、ではなく、どのように考えようとしているか、ということが、この一文のテーマとなる。
 まず最初に、絵本とはどういうものか。
 それについての手がかり、第一。
 ぼくはある社の小学校国語教科書の編者のひとりであって、その教科書には、元来絵本であったものから、物語を四編とっている。『しょうぼうじどうしゃじぷた』『しずかなおはなし』『やまんばのにしき』『ごきげんならいおん』である。
 これについて、大阪教職員組合から批判があった。まず「じぷた」について。
 「(じぷた)が絵本として作られた作品だとしたら、教科書のように絵が少なく、しかも小さいということになると、作品のもつ魅力が半減するのではなかろうか。絵と文が切りはなせないないものとしてあり、文の平坦さは、絵で補われて、はじめて生きてくるのではないか」。
 また『しずかなおはなし』について。「どうしても気になるのは、じぷたの時にも同様だったが、『しずかなお話』はやっぱり絵本だ、ということである。」それが教科書中の一遍となってしまったため、「これほどすぐれた作品も何となく色あせて小さくみえてしまう」。
 この批判をふくむ大教組からの教科書批判はありがたいことであって、現在進行中の中間改訂のなかで、ぼくはできるだけその批判に答えようと思っているが、いましるした絵本に関係する部分については、教科書をはなれて関心をそそられた。
 そこで、絵本とはどういうものか、について、手がかり第二。武市八十雄の発言である。「絵本として理想的なテキストは、たとえば一冊の絵を15なら15枚並べる。知らない人が見たとき、これだけではどんなものになるかわからない。テキストのほうはテキストだけタイプ打ちにして読むと、こんなテキストはいったいなにになるんだろう。しかし、その絵を文が組みあわさったときには、これ以外にはないという世界が浮かび上がるものが、価値がある。」(『日本児童文学』71年12月臨時増刊・絵本)
 この発言は「絵本として理想的なテキスト」という限定が最初についている通り、「理想的」なありかたのものだと思う。そして「理想的」だということは、そうでないものが存在していることである。
 ひるがえって考えるなら、絵本をつねにここまで限定しなくてもよいのではないか、という気持ちが、ぼくのなかにはある。
 ぼくが国語教科書にとった四つの物語は、武市発言中にある「こんなテキストいったいなにになるんだろう」というものではない。それぞれ絵本をはなれても独立した存在価値のある物語である。
 こういう絵本の例としては、『ちびくろ・さんぼ』『八郎』などをあげることができるし、また日本民話の絵本もほとんどそうである。
 では、独立の価値がある『しずかなおはなし』について、これが絵本でなくなったため、「これほどすぐれた作品も何となく色あせて小さくみえてしまう」というのは、どういうことになるのか。
 これは、一方では、詩だけでイメージを結び得ない外国作品を持ちこんできたことのまちがいであるかもしれないし、また、一方では、イメージを結び得ない読者の問題であるかもしれない。
 絵本ではないが、ぼくは以前、ある宮沢賢治童話集の絵を見て、ぼくのイメージとまるきりちがうのにおどろいたことがあった。物語の読者は、それがことばで伝わってくる際、自由なイメージを思い浮かべることができるが、それが絵として目の前に提出された際、ある限定を受けることがある。
 たとえば『八郎』は必ずしも絵本である必要はない。胸に雲こをもちょもちょたからせ、頭の髪の中には小鳥たちをすまわせている、このばかけな山男のすがたを自分自身でえがき出す──これまた、物語を読み、きくことのたのしさの一つではないか。しかし、現在、多くの読者が思いうかべる八郎のイメージは、滝平二郎の八郎によって限定されている。
 では、『八郎』は絵本でない方がよかったのか。これまた、かならずしもそうとはいえぬ。言葉による物語そのものが独立の価値を持つ場合、絵は一面では物語を読む補助手段という役割をはたし、さらにそれより大きく、絵と文の相乗的効果をもたらす。
 ただ、絵本読者のがわからいえば、「言葉による物語」のほうが、「絵による物語」の補助手段として、逆転している場合も多い。独立価値のある「ことば・物語」が先にあったからといっても、それは読者とは無関係のことなのである。
 ところで、その補助手段ということは、いままでの絵本の読者の多くが、年少の読者であることと関係がある。彼らはまだ、ことばだけではイメージをつくり出せない。そこに絵が入ることによって、イメージ形成の手がかりが得られる。『しずかなおはなし』のハリネズミのすがた、森のふんい気をあらわす絵──これらがなければ、日本の年少の読者には、もしかしたらイメージは形成できないかもしれない。
(ただし結論については保留)
 そして、絵がもたらすハリネズミのようすや、森のふんい気は、文と共に相乗効果をつくりあげる。この相乗効果の前提には、まず、外的イメージとして存在している絵と、それによってひきおこされる内的イメージとはちがう、ということがある。読者それぞれの主体によって、絵は読みとられる(適切なことばではないが)のであり、ひとりひとりの読みとり方──内的イメージは絵と同一ではない。
 そして、この絵によるイメージは、ことばによるイメージとはちがう。イメージはつねに視覚的な要素を持つものだが、ことばによるイメージではその視覚的要素は微弱なことが多い。絵によるイメージでは視覚的要素が強調される。「ことば・花さき山」は読者に強烈な観念を訴えかけるが、観念、ことばのリズムと、視覚的イメージ、絵の展開のリズムとの交響が、『絵本・花さき山』の世界をつくりあげる。(注意、これは「花さき山」の価値判断ではない)
 『しずかなおはなし』が一遍の詩として、教科書に入ったとき「これほどすぐれた作品も何となく色あせて小さくみえてしまう」のは、その相乗的効果を失ったためであろう。
 ここからは、国語教科書の限界が明瞭に指摘される。たとえ今日の検定制度が撤廃されてもなおかつ、絵本を国語教科書中に持ちこむことは不可能に近い。絵本は表紙からはじまる一冊の本だからだ。
 ただし、そのことはここでの問題ではない。絵本とはどういうものかというテーマに即して考えるなら、もう一つの問題のほうが、より重要である。その問題というのは、「教科書・しずかなおはなし」批判を、一般論に還元した場合のことである。
 『しずかなおはなし』は絵本でなくなったため、「何となく色あせて小さくみえてしまう」になった。とすれば、相乗的効果を持つ絵本は、相乗的効果を持たない「ことば・物語」より、つねに大なる機能を発揮する、大なる芸術的感動をひきおこすということになるのか。
 ここで『八郎』にまた出てきてもらうと、八郎が海にむかってさけぶたび、八郎の胸は大きくなる。そのようすはこうである。「ままんで、かじ屋のふいごみたいにふくらがって、竹屋のつくるかごみたいに大きくなって、はまのりょうしが使う大びくほどもでっかくなって、しまいには家一けん、すっぽりはいるほどにも、育ったとしぇ」。
 経験少ない年少の読者のことは問わず、おとなの読者がこの文章をよむときには、かじ屋、竹屋、浜のりょうしのはたらくすがたが、その場の情景と共に、うかんでくるはずである。もちろん、その変化ははやく、あかあかと火がもえふいごが音をたてるかじ屋のようすは、たちまち、青空の下、庭にすわって竹をしごく竹屋のすがたにかわるにだが、瞬時にうかんでは消えるこのイメージは、八郎像形成に重要なはたらきを持つ。八郎はかじ屋であり、竹屋であり、りょうしである──その総和である。
 だが、海にむかってさけぶ八郎をかいた滝平二郎の視覚的イメージの強烈は、瞬時にうかんでは消えるこのイメージを消しかねない。交響ではなく、限定がはたらきかねないのである。
 だが、『絵本・八郎』に多くの人びとは魅せられた。ぼくもそのひとりである。その理由、というより背景には、ことばの衰弱がある、とぼくは思う。
 マスコミ風表現だが、今日はイメージのはんらんの時代である。絵本の急速な発展もそのなかに位置づけられる。そして、ことばの衰弱とは、実体を持たないことばのみがおどりすぎ、それが外的イメージのはんらんと重なりあい、たがいに因となり果となって、受け手のがわにも、ことばによるイメージがなかなか結び得ない条件が生じてきたことだ、と思う。
 そこへ絵本が出現した。テレビCMの安手な視覚的イメージではなく、ほんものの魅力をそなえたイメージを主体として、だ。この新しい芸術の新鮮な魅力に、人びとは引きよせられた。「ことば・しずかなおはなし」が「色あせて小さくみえてしまう」のは、この振興の芸術との対比によるものであろう(教科書という制限のなかの絵の問題もあるにせよ)。絵本の魅力にひきこまれるとき、ことばの世界は遠くにかすむのである。
 しかし、かつての子どもたちは『ヘンゼルとグレーテル』を読むことによって、日本の森とはちがう異国の森を想像した。ことばの力は今日でもまるきり失われたわけではない。もっとも、都市のアスファルト・ジャングルに住む子は、異国の森を想像する手がかりさえも失っているかもしれない。教科書の『しずかなおはなし』については、その反応の資料を収集したいのだが、視覚的イメージへの傾斜が強い現在の様相が、もとにもどれば(もどらないかもしれないが)、「えほん・しずかなおはなし」と「詩・しずかなおはなし」はそれぞれの世界の微妙な違いはあっても、一方が一方より芸術的感動において大、ということはあり得ない、と思う。
 そして、おそらく、今日いささか加熱とも見える絵本の生産にも、そのような事情──絵本の魅力へののめりこみが反映しているのではなかろうか。絵本にならなくてもよいものが、絵本にされてしまうのだ。
 
 2.絵の展開
 ところで、絵本を絵本たらしめているもの──その一つに絵の展開ということがある。よくいわれる”絵で語る”ということだ。
 これをぼくが最初感じたのは岩波子どもの本の『ちびくろ・さんぼ』のおしまいのほう、ホットケーキをたべるところの展開であった。
 まんぼが27枚、ホットケーキをたべる。そのトラのシマのようなつみ重ねが右ページにあり、左ページにはそのつみ重ねより高く、父親じゃんぼのたべる50枚のホットケーキがつみ上げられている。そしてページをひらくと、こんどはページを上までつきぬけるホットケーキのつみ重なりが、目にはいる。
 この各ページの変化、ことに、ページをひらいたところで、紙面をつきぬけているホットケーキのつみ重ねが出現するところが、ぼくに絵本を感じさせた。
 また、最初の赤いうわぎ、紫のくつ、青いズボンと、物が一つ一つ示されるのも、おもしろかった。今日ではいささか説明調を感じるし、緑のかさが次のページにまわっているのは、当時からいまに至るまでなっとくできないのだが、その説明調も、説明のためのさしえとは言い切れない。かつての講談社絵本的、また今日の百円絵本的に、紙面全体が絵でびっしりうずまっているのではなく、うわぎはうわぎ、ズボンはズボンとして、白地の上にくっきりと示されるのである。
 ”絵で語る”ことからそれるが、この岩波版『ちびくろ・さんぼ』絵本の最大の欠点は、主人公さんぼそのものの姿であろう。この物語展開の場がアフリカか、インドかということとは関係なく、ぼくには、主人公の姿はちがうという感じがしてならない。さんぼの父母もいれて、黒人のかきようがこれでよいのか、ということだ。
 もちろん、「ことばちびくろ・さんぼ」にすでに限界があった。だが、その物語からだけ見ても、さんぼはもっとかしこく、もっとたくましい(外形的にではなく)人物なのではないだろうか。この絵本の主人公の姿は、物語と共にマイナスの相乗効果をつくり出しているように思う。これは現在のぼくの『ちびくろ・さんぼ』観である。
 しかし、いずれにせよ、ぼくは岩波子どもの本によって絵本にめぐりあった。「さんぼ」のほかには清水昆の『かにむかし』とバートンの『ちいさいおうち』である。
 『かにむかし』の最初の場面はカニと柿の実、第二場面はカニと柿の種、第三は柿の木とカニ、第四は青い実をならせた木、というように、まず柿の木の成長が語られる。そして、第五場面をひらくと、まっかにうれた柿の実のむれが、わっと目の前におしよせる。
 そのうち、つぶされたカニの姿が見ひらきいっぱいにひろがり、そのこうらの下から、左下方へななめに小ガニのむれがはい出してくる。その次の場面では、わかいカニたちが左ページいっぱい、右ページにまではみ出して、ほぼ正方形に並びあう。その次では、このカニたちは横につながる行列となり、クリ、ハチその他すべてがそろったところでは、その横に長い行列は紙面をはみ出して、進んで行く。
 この展開は図形的(?)である。最初の柿の木の場面はタテのイメージであり、実が真っ赤にうれたところでは正方形、カニがつぶれたところは平行四辺形、それから正方形、矩形と展開していく。そして、それぞれの変化の原点は正方形であり、その内容はうれた柿の実と、成長したカニのむれ──共に生成の豊かさである。
 絵本の生命は一つ一つの絵と共に、絵の展開だと思うが、岩波子どもの本が現代絵本──それ以前の絵本や、名作絵本などと区別するために、とりあえずこのことばを使わせてもらう。その内容は翻訳と創作、両方をふくむ──の出発点であったとするなら、現在、その展開はどのようになっているのだろうか。
 瀬川康男『やまんばのにしき』の最初の絵は、おどろおどろしたちょうふく山である。最後の場面では、まったくおなじ構図のちょうふく山が、青空の下のあかるい山になっている。なぜそのように変化するのか。それを語るのが、『やまんばのにしき』の物語である。
 つまり、ちょうふく山がなぜ変化したのかを物語として、瀬川康男は『やまんばのにしき』をとらえた。物語に即しながら、画家の独自の解釈がここで行われる。ここで見られるように、絵の展開というのは単なる技法ではなく、画家独自の解釈(解釈というより、もっと主体的なものだが、とりあえず)をその根っこに置くものである。
 そして、ちょうふく山の変化をもたらすものは、「ことば・物語」ではあかざばんばだが、「絵・物語」によれば、ぼくには、だだはち、ねぎべそも、それに参加しているように思えてしかたがない。もっとも「ことば・物語」でもあかざばんばは個人的英雄ではないらしいのであって、だだはち、ねぎべそを包みこむ要素を持っている。そして、とちゅうから逃げ帰ったにしろ、だだはち、ねぎべそも、ちょうふく山の変化に参加することによって、この変化は民衆のもたらしたものだ、というなっとくがいくのである。
 だだはち、ねぎべその問題は、絵の展開とは関係のないことだが、ここでも画家の解釈は生きている。画家の立場からいえば「ことば・物語」を自らの「絵・物語」の補助手段に逆転させなければ、絵本は成立しないだろう。
 『やまんばのにしき』は大きなわく組のなかで、絵の展開を成功させた一例だと思うが、失敗の例はどうだろう。
 いわむらかずおの『うそみーるめがね』。これは『日本児童文学』72年5月号の座談会で、周郷博から「政治的」と評されている。ぼくにはすこしも「政治的」と感じられないので、この評にはくびをかしげてしまうのだが、この絵本は絵の展開において失敗している、と思う。その展開には、うそみーるめがねへの集中がないのである。
 ネコと出あって地下の町にはいるまでに、三見ひらきが要され、さまざまのめがねをかけることで、四見ひらきが費やされる。地下の町にはいるのは物語のはじまりに属す部分なので、もっとはしょるべきだったろうし、さまざまのめがねにもこれだけの場面は必要ない。それよりむしろうそを見ることのくりかえし、くりかえすことによっての深まりが必要であったはずだ。
 なおこの絵本で決定的なミスは、カウンターの中に絵具があり、ジュースは実は色水だということが、その絵具をみつけることでわかることだ。これは、うそみーるめがねをかけている本人にしかわからない絵具、かけていない人にはほかのものに見える、とでもいう設定でなければならなかった。
 これと対照的に思い出されるのは、なかのひろたかの『あかいりんご』。福音館のスーパーブックスの一冊である。単純化された森、森の中に赤いリンゴが一つ、そこへスズメがやってくる。スズメが食べようとするとウサギがやってくる。ウサギが食べようとすると、キツネ・・・・・。
 この展開のなめらかさには、逆にいったいこれでよいのかな、と思わされてしまう。『うそみーるめがね』には展開の技法が欠けていたが、『あかいりんご』には誠実さがあり、『あかいりんご』には物語のおもしろさがある。そして、本屋の前の筒に並ぶ絵本が昨年も1,500万冊出たとかいう話をきくと、第二第三の『うそみーるめがね』『あかいりんご』がもっともっと出てきてよい、と思う。
 しかし、よりよいものがほしいのも当然のことであって、その際、絵の展開はもっと考えられなければならぬ、と思うのだ。(『児童文学・1972』聖母女学院児童文化研究)
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