『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

昭和の児童文学

1 出発点「童話」から「児童文学」へ

 桃太郎はミチルと、チルチルはかぐや姫と「港についた黒んぼ」は「白雪姫」と(中略)都合九組ご婚礼をあげることになりました。お仲人は厳谷のをぢさん、三重吉をぢさん、北原をぢさんの三人です。
 式はバロンの広場で行はれました。山猫博士が演説をしました。
「『おとぎばなし』の昔は過ぎました。われわれた『童話』の夢を追ってもゐられません。今や『少国民文学』の時代であります」。
 以上は赤い鳥出身の児童文学者森三郎が、その著書『うぐいすの謡』の序にかえて書いた「桃太郎の夢」の一節である。
 森三郎の作品のいのちは短く、時代をこえて今日まで生きる力は持たなかったが、この「序にかえて」の山猫博士のことばは明治・大正・昭和三代の児童文学のうつりかわりをあらわしている。この本が出たのは昭和十八年、太平洋戦争の最中だから、「少国民文学」ということばを使っているが、これを児童文学とかえればそれでよいのである。
 「おとぎばなし」「童話」「児童文学」の三つのよび名のうち「おとぎばなし」はいうまでもなく明治の産物である。そして、戦前にあった児童文学者のもっとも大きな団体は「童話作家協会」であった。大正十五年創立のこの団体が昭和十五年「発展的解消」をとげたことは、解消以後、敗戦の昭和二十年に至るまでの期間、「少国民文学」があったかもしれないことを示しているが、昭和二十一年誕生した児童文学者の組織は「児童文学者協会」であった。
 戦前の「童話作家協会」が戦後には「児童文学者協会」にかわっていく、このよび名の変化はそのまま昭和の児童文学の歩みを示している。童話から児童文学へ、これが昭和の児童文学の動きである。
 では、この童話から児童文学へという動きは、いったいどのような意味をもっていたのだろうか。

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 とりあえず出発点を見よう。
 さきに言ったように、「童話作家協会」は大正十五年に創立された。その創立月は二月、そしてその年の暮、もうあと数日で昭和二年という十二月二十四日にこの会の編集による年刊(その後・毎年・その年度の代表作を集めて『日本童話選集』は刊行されていく)『日本童話選集』の第一輯が発行された。収録作品三十四編、かならずしもこの年に書かれたものではなく、その前数年間に発表されたものもふくまれている。いわば大正期の成果をふくんで「童話作家協会」は新しい時代に立ちむかおうとしたのであった。
 その三十四人の顔ぶれは実に興味深い。巌谷小波・安倍季雄・久留島武彦などおとぎばなし・口演童話系統の作家がいるかと思えば、宇野浩二・豊島与志雄のような文壇作家も名をつらね、大家小川未明はもちろん、当時の新進千葉省三・酒井朝彦・水谷まさるなども作品を発表している。
 だから、作品もさまざまであった。その第一は説話的なものである。昔から伝えられてきた民話・伝説・奇談・珍談に材料を取り、あるいは創作であっても民話・伝説的なものとよく似ている。そうしたものがまず多かった。大正期児童文学の作品は量的には説話的なものが一番多い。芥川龍之介の『杜子春』『蜘蛛の糸』などは説話的作品の代表である。ただ芥川はそのなかに自分の思想を盛り、技巧をこらしたことが他の人びとの説話的作品とはちがっていた。
 日本の児童文学が説話的なものから出発したことを、ぼくたちはまず認めなければならない。小波を見ても『赤い鳥』その他の大正児童雑誌を見ても説話的なものが圧倒的な量をしめている。子どもが喜ぶ他の文学形式はまだほとんど確立されていないのが大正末期であった。
 もちろん新しいものの芽ばえはあった。この『日本童話選集』のなかだけを見ても、戦後十年をすぎてのち高く評価されるようになった千葉省三の幼年童話『ワンワンのお話』(のち『ワンワン物語』と改題)が収録されている。そして、古めかしい説話的なもののあいだにまじって、子どもの生活に取材した数編の作品がある。これはたしかに新しい方向をめざしたものだが、その作品を見るとき、ぼくはまったく隔世の感を受ける。ひと口にいえば、それらはすべて稚拙である。
 たとえば『電車』(岩井信実)という作品。友だちに見せると約束したおもちゃの電車が家にない。もともと兄が東京みやげに買ってきてくれているはずのものであった。わすれていた兄は弟をつれて町のおもちゃ屋をさがし、夜とうとういっしょに京都までいって買ってくるという話だが、リアリティがまったく感じられないのである。
 その書き出しはこうであった。
  いつものように学校から次郎さんと、一郎さんと、勉さんと、金ちゃんと、三ちゃんと五人が後になり、前になりして、一しょにお家へかへるところでした。丁度、橋の上に来たとき、他所のをぢさんが美事な電車をもった五つ位な子供の手をひいて、むかふからいらっしゃいました。
 「後になり、前になり」、「美事な電車」という大づかみなとらえ方、こうしたとらえ方は、今日では、児童文学をはじめたばかりの人びとでもやらないことである。また「いらっしゃいました」という敬語、これもほとんど影をひそめた。
 その変化が童話から児童文学へと動いていった成果の一つである。より重要なのは単一の説話的作品群から出発した日本児童文学が、今日では多彩な文学形式をもっているということである。
 『日本童話選集』はそのまえがきで当時の児童文学の世界を「混沌そのもののやうなわが童話界」と呼んだ。この一冊はそれを象徴していて、前にも言ったように、創作ではない説話的なもの、後世にのこるもの、今日の児童文学同人誌の水準にもおとるもの、さまざまなものをふくんでいた。
 だが、その混沌に秩序を与え、方向を見出そうとする願いがこの本の刊行理由になったのでもあり、だから編さん委員たちは次のように意気ごんでいた。
  この選集を通じて見られる新興童話の業績も決して二三には止まらない。専ら大人の享楽のために作られた旧童話の低俗な教訓と猥雑な趣味から離れて、純粋に児童のための文芸を樹立しえたことはその一つである。新奇な異国趣味と素朴な郷土情調の擅まな交響から、児童のために多彩で感情のあふれた一新芸術境を開拓しえたことはその二つである。国語の単純化による新しい児童的表現によって、わが国の児童ははじめて彼らの国語と彼らの文学をもつに至り、そしてそれが同時に、明日の日本語と日本文学のために一つの基準を作ったことはこの三つである。
 ここには児童文学発展の今後の道すじが語られている。「純粋に児童のために文芸を樹立すること、国語の単純化による新しい児童的表現」を創造すること――この道すじは昭和文学全体のなかでは、おとなの文学の歩みとはちがう独自の道すじであり、子どもと子どもが持っている諸性質を通して人間と世界を発見していくことであった。子どもは説話的なものを喜ぶものだという程度の浅い認識と、今日の児童文学諸作品とのあいだには四十年の努力がかけられている。
 そして、独自の道すじといえば、ぼくはある文学研究者が言ったことばを思い出す。「児童文学者ってずいぶんおくれてるね。新感覚派が出て来ても別に全然関係ないんだからね』。実際にはある程度の関係はあったのだが、もしなかったにしろこの考え方はあたらない。児童文学の動きは大人の文学の動きとはかならずしもパラレルではない。児童文学の中心課題は前に見たように「児童のための文芸を樹立する」ことであって、昭和文学の特殊な側面をかたちづくっている。
 いうまでもなく児童文学は成長中の人間である子どものための文学である。五歳の幼児にとっては『戦争と平和』も夏目漱石も何の価値も持たない。何をどのように書いてもよいという小説の約束は児童文学では通用しない。
 児童文学の読者である子どもは、おとなとは心理的にもちがい言語・知識・経験もかぎられている。またおとなの忘れ去った言語・知識・経験を持っている。
 ここに児童文学が専門化していく理由があり、問題はおくれているか、いないかというようなことではなく、児童文学を包含して進むことのできなかった日本文学全体のなかにあるとぼくは思う。
 ここで昭和児童文学史がおとなの文学史とちがうところをあげておくと、まず第一に児童文学はこの四十年の間に進歩・発展してきたと、言い切れることである。非創作的なものまでもふくんで『日本童話選集』を銘うたなければならなかった時代と、今日とを比較すれば、児童文学はあきらかに進歩した。だが、おとなの文学の場合、今日の小説が昭和初期の小説にまさっているとは、かならずしも言い切れない。
 このちがいから昭和の児童文学の特徴を見ることもできる。大正を近代日本児童文学の幼年期とすれば、昭和は少年期なのである。少年期のはじめと少年期のおわりとでは背たけがちがうのが当然であり、おとなにはその変化はない。
 比喩的な言い方をすすめれば、児童文学がそのあるべき姿を求めて成長してきた歴史、これが昭和児童文学の歩みである。この歩みは発展と共に試行錯誤の歴史である。
 すでに『日本童話選集』にその錯誤――不幸の芽生えはあらわれている。そのまえがきにあげた二つめの業績「新奇な異国趣味と素朴な郷土情調の擅まな交響から、児童のために多彩で感情のあふれた一新芸術境を開拓しえたこと」これは不幸の芽生えであったといえよう。
 おそらく具体的には小川未明・浜田広介・酒井朝彦などの作品をさすこのことばには、日本児童文学の今後の歩みの一側面が情緒的なものに支配されていく、その方向が示されている。わざわざ三つあげた業績の一つが「趣味」「情調」「感情」ということばでいろどられた「一新芸術境」なのであった。昭和初期数年間のあいだに説話は情緒的な童話に駆逐されていく。面白さが情緒にとってかわることは、はたして発展であったろうか。
 しかしとにかく、さかのぼって大正七年鈴木三重吉は『赤い鳥』創刊に際して言った。「西洋人とちがって、われわれ日本人は哀れにもいまだかつて、ただのひとりもこどものための芸術家を持ったことがありません(注)」。
 そして、大正の末「子どものための芸術家」を志す人は生まれつつあった。

 注 「童話と童謡を創作する最初の文学的運動」「(『日本児童文学大系第二巻』三一書房)この資料集は収録資料を現代かなづかいにあらためたという欠点を持っている。この資料集によった今後の本論の引用が現代かなづかいになるのはそのためである。
テキストファイル化伊藤美穂子