子どもの本

藤田のぼる
東京新聞

           
         
         
         
         
         
         
    
 「名前」 とは不思議なものである。もっとも自分に固有なものなのに、自分自身でつけるわけにはいかない。自分の一生にわたって支配する 「主人」 のようで、かけがえのない友だちのようでもある。文学でも、名前はさまざまなモチーフになってきた。児童文学では、 「eのつくアン」 に断固としてこだわった 「赤毛のアン」 をまず思い出す。何も持たない彼女にとって、名前は最後のよりどころだった。ケストナーの名作 『ふたりのロッテ』 は、両親の離婚で別々に育てられた双子のルイーゼとロッテをめぐる物語だが、その名前は母親のルイーゼロッテにちなんだものだった。つまり、二人の名前は運命的再会の符丁の役割を果たしたわけだ。
 今回紹介する作品の一つも双子の物語であり、もう一作は 「名づけ」 をめぐるドラマである。いずれにしても、名前に象徴させながら、自分とはなにか、自分はだれなのかという、永遠のテーマに果敢に挑んだ作品といえよう。

 『ふたご前線』
     (高科正信・作、すがわらけいこ・絵、フレーベル館、1100円)

 酒屋の 「看板娘」 を自称する真秀(まほ)と真澄(ますみ)は双子の姉妹。両親は、幼い時から二人に同じ服を着せたりせず、性格も対照的に育った。二人の名前は日本酒の銘柄からつけられたのだが、それが分かる客は少ない。二人が五年生になる春休みに初めて店にやってきた坂下さんは、二人の名前の由来にすぐ気づき、元は学校の先生で今は小説を書いているという坂下さんは父親とも意気投合、二人の家庭教師を引き受けさせられる。さっぱりとした気性の真秀と女の子っぽい真澄。対照的な二人のコンビがある無理を抱えていることを見抜いたのは、その坂下さんだった。
 この作品には、ドンデン返しともいうべき仕掛けがあり、それはここには書けないが、特異な設定の中から、自分の真の姿を求めてやまない少女の心の軌跡が浮かび上がる。

 『海の魔法使い』
     (パトリシア・マクラクラン・作、中村悦子・絵、金原瑞人・訳、あかね書房、1000円)

 「のっぽのサラ」 「草原のサラ」 の著者といえば、児童文学、ことに翻訳もののファンならピンとくるだろう。その作者の、これは 「人魚姫」 の設定にも似たファンタジーである。海の魔法使いたちは、生まれると自分で名前を見つけてこなくてはいけない。陸に行き、そこで最初に出会ったものの名前が自分の名前になるのだ。ところが新しく生まれた赤ちゃん魔女には、いつまでたっても名前がつかない。
 まわりがどんな名で呼んでも、にこにこして返事をするのだ。どんな名前もぴったりで、どんな名前も好きだという。しびれをきらした母親は、陸に行って一つの名前を見つけてくるよう厳命する。そして……、彼女がどんな名前を見つけたかは、これも書かないほうが賢明だろう。
 一つの名前にしばられることの不条理、しかし一つのかけがえのない名前と出会う不思議さ。情緒豊かという表現がぴったりの作品から、そうしたさまざまな思いがにじみ出ている。

   (ふじた・のぼる=児童文学評論家) 東京新聞2000.10.22
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