子どもの本を読む

岐阜(夕刊) 1991.2.27

           
         
         
         
         
         
         
    
 「グッバイバルチモア」(那須田淳)はなかなか読ませる作品だ。舞台は湘南、時は夏休み。中学二年の遼は、通りがかりのバッティングセンターで、ひどく気になるロボットピッチャーに出合う。去年ワンダーフォーゲル部の登山で遭難死した親友のタカシにどこか似ているのだ。
 小学校時代二人は少年野球のチームメートで、タカシはエースだった。それから遼はそのバッティングセンターに通い続け、そのロボットピッチャーへの挑戦を続けるが、一向に打てないうちにお金がなくなってしまう。そして一週間ぶりに行ってみると、バッティングセンターは取り壊されてしまっている。遼はそのロボットピッチャーの行方を追って、ついには上海まで足を延ばすことになる。
 親友の死というシチュエーション、そして何かを求めて探索行という展開は村上春樹の幾つかの作品を思い出させる。というより、何者かとの(実はそれは“自分探し”と言い換えるのが妥当だが)出会いを求めての旅、そして出会ったことによってそれまで自分と決別するといったプロットは、むしろ“児童文学的”といっていいものであり、硬質な文体で少年の心の軌跡描き出したこの若い作者には、本格的な可能性を感じる。
 「まぼろしのプレーボール」(及川和男)もそのタイトル通り、野球が素材である。その点では「グッバイバルチモア」よりも作品の輪郭ははっきりしている。
 東北地方の地方都市に住む作家である主人公は、ある日散歩の途中、野球場の近くで高校時代のかつての恩師木島先生と出会う。彼は旧制中学校時代の野球部長であり、この学校は昭和十六年の夏、甲子園大会の出場を有力視されていながら、突然の大会中止のため断念せざるを得なかった歴史を持っていた。
 当時のチームのメンバーの多くは、若くして戦死しており、それ故に木島先生の悲しみはいっそう深いものだった。
 ある晩、「ナイターを見にいくべ」と誘いにきた木島先生について行くと、野球場は青白い照明に包まれ、そこでかつての木島先生の教え子たちだけでなく、戦争で死んでいった名選手、沢村、吉原、景浦たち、すなわち死者たちによるゲームが開始されるのである。ここに至るプロセスや、何よりもこのやみのなかのゲームそのもののリアリティーは抜群で殺気迫るものがある。
 この紹介から容易に連想されるように、映画「フィールド・オブ・ドリームス」の日本版といった趣もあり、また死者たちの確かな手触りという点では、山田太一の「異人たちとの夏」をも思い出させる。戦争で散っていった野球選手この事を描いた作品はこれまでも幾つかあったが、ここまで生々しい追憶の思いを感じさせるものは初めてだった。
 「三塁打だよ、かぎばあさん」(手島悠介)は、おなじみのかぎばあさんシリーズの第十作。少年野球のチームのレギュラーにやっとなりながら、甲子園出場の兄さんへのコンプレックスで、力を出せないでいる主人公のところにかぎばあさんがやってくる。
 「それ行けヘディングシュート」(生源寺美子)は、小さな町でそれぞれの親が同じ時期に学習塾を始めることになり、いわば商売敵になった二人のサッカー少年の友情の物語。
 決してきれい事でなく、二人の悩みや成長、それぞれの家族の姿に迫っている。(藤田のぼる
本のリスト
グッバイバルチモア(那須田淳:作 スズキコージ:絵 理論社)
まぼろしのプレーボール(及川和男:作 高田勲:絵 岩崎書店)
三塁打だよ、かぎばあさん(手島悠介:作 岡本颯子:絵 岩崎書店)
それゆけヘディングシュート(生源寺美子:作 吉村明子:絵 金の星社)
テキストファイル化三浦真弓