子どもの本を読む

四國新聞 1990.2.25

           
         
         
         
         
         
         
    
    

 アメリカの作家ウイリアム・サローヤンの「パパ・ユーア クレイジー」は、全編が父と子の哲学的な会話に満ちた物語だが、これを訳した伊丹十三が、あとがきの中で次のように書いているのは興味深い。「英語で育てられるということは生易しいことではない、と私は思う。(中略)親と子供の間といえども、ことごとにアイやユーが立ちはだかる、差異と対立の世界」である、というのだ。
 確かに父と子、母と子、先生といった関係性に覆い尽くされてしまう日本の大人と子どもの関係に比べ、あちらの物語の例えば親と子は、実に「アイ」と「ユー」として向き合っている。西洋の児童文学作品を読んでいて、最も違いを感じる点がそこだ、と言ってもいいように思う。
 さて「パパあべこべぼく」(メアリー・ロジャーズ)は、十二歳のベンと、四十四歳の父親の体がある日突然入れ替わってしまうという、奇想天外な物語である。ベンはハンサムでやり手の父を、父は優等生のベンをそれぞれ誇りに思いながら、それゆえにかえって互いに弱味を見せあわないできてしまい、体が入れ替わった二人は当然そうした相手の知られざる一面にさまざまな場面で出っくわすことになる。
 映画会社の重役である父(になったベン)が、ヘマをやってクビになりそうになったり、キャンプに行ったベン(になった父)が大活劇を演じたりと、全編ハラハラドキドキに満ちていて退屈させないが、僕はさてこの物語が日本の子ども読者にどのように面白いだろうか、と考えてしまった。
 パパになったベンが必死にパパを演じ、ベンになったパパが懸命にベンを演じ、というこの物語の基本的なおかしさ、面白さは、実は親子が「アイ」「ユー」として向き合っているあちらの子どもたちにしか、受け止め切れないのではないか、そうした危ぐを感じたのだ。
 しかし、日本の父と子の像もさすがに変わってきている。「父をたずねて三千円」(岩本敏男)は、四年生のまさしが離婚した父親を、電車に乗って一人で訪ねていく話。そこに父親の新しい女友達がやってきて、というドラマはややパターンだが、この主人公の父や母への向きあい方は、かなりに「アイ」と「ユー」に迫るものがある。
 「お父さんのバックドロップ」(中島らも)は、四話からなるそれぞれに型破りな父と子の物語。悪役プロレスラーの父親と、そうした父に反発して勉強に精を出す息子を描いた表題作もいいが、僕は第三話「お父さんのロックンロール」が面白かった。すべてジョークにしてしまう父親を、家庭訪問の時必死に先生に会わせまいとする娘の話だが、“軽さ”にいわば命をかけている風な父親の姿が、僕には新しい“ガンコおやじ”のようで新鮮だった。
 「アヒルよ空を飛べ!」(はまみつを)は、以上二作に比べるとぐっとシリアスなタッチの作品だ。主人公の六年生の少年は、父の突然の家出から、自分も学校に行かなくなってしまう。この少年がアヒルのひなを買い、このアヒルにのめりこみ、育てていくさまを、作者は冷徹な筆で追う。父の不在をバネに、少年が「アイ」として自立に向かう困難に満ちたプロセスこそ、僕には日本の児童文学が大人と子どもの新しい関係を獲得していく厳しい道程であるように読めた。
藤田のぼる

「本のリスト」
パパあべこべぼく(メアリー・ロジャーズ:作 斉藤健一:訳 福武書店)
父をたずねて三千円(岩本敏男:作 ユノセイイチ:絵 くもん出版)
お父さんのバックドロップ(中島らも:作 山口みねやす:画 学習研究社)
アヒルよ空を飛べ!(はまみつを:作 松島順子:画 金の星社)
テキストファイル化秋山トモ子