子どもの本を読む

岐阜新聞 1990.02.07

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 今回は“へんな”本を何冊か紹介したい。へんと言って悪ければ、妙なおかしさをもった本、今少し文学的に言えばナンセンスな面白さに満ちた本、ということになる。こうした作品は文学的な評価というよりも、自分の直感、センスで選ぶしかないから、なかなかこうした場では取り上げにくい。
 さて、その「へんな本」のトップバッターは「スーパー仮面はつよいのだ」(武田美穂)。絵本だが、中は漫画風のコマ割りで、絵本と漫画の中間型といったところか。こうしたタイプの絵本はこれまでもなかったわけではないが、漫画にしときゃ面白くなるだろう式の安易な感じが強かった。その点この本は独特なタッチの絵の味わいもさることながら、独白風のナレーションを多用して、読者との間に軽妙なコミュニケーションを成立させることに成功している。そのあたり、今評判の少女漫画「ちびまる子ちゃん」にやや共通するものがある。
 ストーリーの方は、ある朝起きるといきなり「スーパー仮面」になっていたぼくが、家でも学校でも見事にスーパー仮面ぶりを発揮する(とはいえ結局まわりをケムにまくだけなのだが)そのてん末といったところで、パーマン型の変身もののパロディーとも読めるし、今の子どもたちの“生活と意見”に側面から光を当てた一種の不条理劇とも言えなくはない。もう少し子ども読者に即して言えば、現実と虚構、ホントとゴッコの区別が見えにくい現在の中で、なにかになりきって遊ぶことのスリリングな快楽がここにはあるということか。
 次の「ぼくのじしんえにっき」の作者八起正道は、自衛隊員の経歴もあるという異色の新人で、作品も十分異色である。やや近未来小説という趣で、主人公が住む町が大地震に遭い、いわば危機管理下におかれた一ヵ月余りの生活が、子どもの日記形式でつづられている。そうした状況の中で、今の社会の“制度”のもろさが次々に露呈していくわけだが、この本を読みながら実は子どもたちはとっくにそうしたことを予感しているのではと、ふと思ったりした。ユーモラスなタッチだが、ちょっと怖い本でもある。
 「ナイアガラよりも大きい滝」の作者庄野英二には「アルファベット群島」など痛快なホラ話の系列があるが、これも見事におかしい大ボラ話。中米の某国から派遣された三人のオリンピック選手が、あまりの不成績に国に帰れず(なにしろこの国では、オリンピックの好成績だけが独裁者の国威発揚の方策なので)、外国船に潜り込み、さらに救命いかだで漂流の末、ゴールデンアイランドなる小島に流れ着く。この島にはなぜか二十六カ国各男女一人ずつ計五十二人の若者たちが住んでいて、実は彼らはという具合に、微に入り細にわたって大ボラのつじつまを合わせているところがおかしい。
 前の二作が、作品の設定やメッセージに出合う作品だとすれば、これは細部の面白さを楽しむ本と言えよう。
 以上三作に比べると「11ぴきのねことへんなねこ」(馬場のぼる)はタイトルとは裏腹にオーソドックスな楽しさに満ちている。「11ぴきのねこ」シリーズの五作目だが、あのバイタリティーあふれる十一匹の猫を手玉にとる水玉猫の登場で、期待にたがわぬ出来である。
藤田のぼる

「本のリスト」
スーパー仮面はつよいのだ(武田美穂:作・絵 ポプラ社)
ぼくのじしんえにっき(八起正道:作 伊藤寛:絵 岩崎書店)
ナイアガラよりも大きい滝(庄野英二:作 古味正康:絵 小峰書店)
11ぴきのねことへんなねこ(馬場のぼる:作 こぐま社)
テキストファイル化秋山トモ子