児童文学クロニクル97
08

児童文学はイノセンスの争奪戦

読者は決して悪の側には立たないが……



           
         
         
         
         
         
         
         
     
 ロバート・コーミアといえば『チョコレート・ウォー』が有名である。この作者は、悪をえがくとき、抜群の冴えをみせる。トリニティ学院というカトリック系の男子高校では、経営資金を補うために、生徒がチョコレートを販売する。ボランティアのはずだが、実際は1人50箱が義務なのである。ところがジェリーという少年一人が売りたくありません、ノーという。ここから、ジェリーと副学院長ブラザー・リオンと秘密組織ヴィジルズの司令官アーチーの三者の戦争が始まる。ん、秘密組織ってなに?と思うだろうが、自治会でもクラブでもなく、生徒間に代々受けつがれてきた裏の組織、陰の実力者集団とでも考えてほしい。この組織の中でも、メンバー間で権力の争奪戦がくりかえされる。
 普通、青春小説のパターンだと、主人公の正義が勝つのだが、コーミアはそうしない。最後の決着はボクシングの試合でつけるというと、清々しい結末をイメージしがちだが、これも違う。実は観客の生徒がチケットを買い、ジェリーが右アッパーを食らうといったリクエストを書く。リングではリクエスト通りに殴り合うのだ。そして、相手を倒す決定打を書いた客が賞金をもらう。グロテスクな茶番である。映画では結末を変えたらしいが、それでは意味がない。『チョコレート・ウォー』の主題は、悪にこそある。試合のルールを考案したアーチーや、試合を黙認するリオンの方が重要人物といわねばならない。
 コーミアの新作『ぼくの心の闇の声』(原田勝訳、徳間書店)でも、無垢な少年に悪いことをさせて堕落させようと腐心する奇妙な商店主の男が登場する。私は、これを読みながら思った。権力の争奪戦になぞらえていえば、児童文学はイノセンスの争奪戦なのではないか。私たち読者は、決してアーチーやリオンや商店主の側に立たない。悪の側の人間であることを認めようとしないのである……。 しかし、どうして私たちは、無罪でありたがるのだろうか。罪は、人間の本質なのに。(石井直人)
(「図書新聞」第2354号,1997.8.16)