児童文学クロニクル97
04

子どもの頃の「絶対」な本       
− 児童文学の魅力というより子ども時代の読書にひかれていた



           
         
         
         
         
         
         
     
 『家なき子』の新訳が刊行された。偕成社文庫の上中下全3冊、二宮フサさんの訳である。『家なき子』は、有名だけれど、これがフランス児童文学で、エクトール・マロ作、1878年と知っている人は少なく、完訳を通読した人もまた少ないだろう。わたしも、子どもの頃、ダイジェスト版で読んだ記憶がある程度で、あろうことか、「家無き子」ではなく「家泣き子」、つまり、なんらかの悲劇によって、シクシクと家で泣いている子どもの話だと長く思い込んでいたくらいで、あまりこの話との相性は良くなかったようだ。
 が、わたしの知人は、『家なき子』と聞いただけで平静でいられないそうだ。子ども時代からのテーマソングならぬテーマストーリーだったからである。傍目には悲劇と無縁な育ちの人にしか見えないのだが、とにかく『家なき子』は「絶対」だったのだという。なるほど、子どものときには、そういう絶対な本があった。大人の比較考量する相対的な読書ではなく。別の知人は、『ツバメ号とアマゾン号』が絶対だったという。それぞれ、『北極のムーシカミーシカ』『とべたら本こ』『風と共に去りぬ』『アッシャー家の崩壊』『人間失格』などなど。わたしはといえば、シートンの『狼王ロボ』だったろうか。
 ひとりひとりの読書の個人史において「絶対」である作品は、まったく様々である。これらに共通の魅力をとりだすことは難しいように思う。これらは、児童文学だったから読まれたのでさえない。とすれば、ここでひとつの疑問がわく。わたしたちは、児童文学の魅力にひかれていたのではなく、ほんとうは子ども時代の読書にひかれていたのではないだろうか。すなわち、読書の理想状態としての児童のことである。わたしたちは、全身全霊をささげるかのように絶対的に作品と出会った、あの子どもの読書の純粋な経験に嫉妬しているのだ……。そう考えてしまった方がすっきりする気がしてならない。 (石井直人)               
(「図書新聞」第2339号,1997.4.26)