児童文学クロニクル97
01


子どもの文学とは… 
子どもでないと味わえない文学をめざすべきだ


           
         
         
         
         
         
         
     
 児童文学が児童文学であること、その第一原理は、なんなのだろう? やはり、子どもが読む、ということだ。子どもの文学とは子どもの読む文学である……。なんだか、当たり前すぎてへなへなとなってしまいそうだが、いや、これしかない!
 と、思ったのは、昨年秋、古井由吉の『楽天記』(新潮社)が文庫になったのを宵寝の寝床で読んでいてのことである。正確にいうと、眠りにつくまでつらつらと読もうと思ったのが間違いで、そうかんたんに慰めの読書をゆるしてくれるような書物ではなかった。『楽天記』は、「五十の坂を幾つか越した」男の話で、生、老、病、死といったことがらへの関心が切実なものである。わたしは、やがてむっくりと布団の上に起き上がって読み耽る仕儀となった。それから眠ったらしく、いつのまにかわたしが作中の男の実在しない幻の息子になってしまって、半ば夢半ば現に苦しんだりした。
 ところで、わたしが『楽天記』から思い出したのは、谷崎潤一郎のエッセイ「芸談」だった。彼は、昭和八年当時の日本に「大人の読む文学」がないことを嘆いていた。「純文学」なんて「十八九から三十前後に至る間の文学青年ども」、しかも作家志望の人間しか読んでいないではないか。もっと「老境に達した者に心の糧を与えるような文学」がほしいといっていた。(これを書いた谷崎は、五十前だったけれど。)だが、『楽天記』のような小説こそ、今日の「大人の読む文学」ではなかろうか。谷崎の嘆息も、少しはおさまるかな、と思う。
 たぶん、それぞれの小説には旬というものがあるのだ。いや、いつその小説を読むかという読者の旬があるのだ。たしかに『楽天記』は、十代二十代で読んでも含蓄などわからなかろう、早熟に読めばいいってもんじゃないと思う。翻って、子どもの文学は、子どもが読む文学というだけではなく、子どもでないと味わえない文学をめざすべきなのだ。(石井直人) 
              (「図書新聞」第2327号,1997.1.25)