超越するということ

公文
2000年7・8月号新刊Review

           
         
         
         
         
         
         
         
     

 趣味でもスポーツでも学習でも、なかなかできなかったこと、わからなかったことが、あるときすーっとできる、あるいはわかった、という経験をどれほどの人が体験しているのかなと、挫折した少年たちの事件報道を聞きながらふと思った。
 ケチなものかもしれないが、私もそれに近い感じをしたことがある。その時の自信はあたたかかった。そして「ああ、ほかのこともやれば超えられることがあるんだ」という予感を感じ、同時に「やっても超えられないこと、どうしてもやりたくないこともあるんだ」と思った。そういう感じというのは人間関係にもあるんだけどね。そして、こういった超えた体験と超えられない体験を確認しながら、人は挫折に耐え、打たれ強くなるんだろう。
 (勝つとか負けるとかではなく)「もっと自分だけの、最高の、突きねけた瞬間がいつかくる」(飛込みにかける自分は日常の楽しみを)「あきらめるんじゃなくて、超越する」
 これは『DIVE!! 1――前宙返り3回半抱え型』(森絵都作、講談社)で語る主人公のことばだ。
 超越! 哲学や現象学などで度々登場することばだ。いいなあ、こういうことば。何か思考がはたらく気になる。これだけ達観できれば、たとえ挫折しても、自分で選んだ人生選択に責任が持てるはずだ。まちがってもコーチが悪い、親が悪い、いじめられたなどとぐずぐず言わないだろう。
 スイミングクラブに通う中学生の彼の飛込み技術はたいしたことはなかった。ところがある日、強烈な女性コーチが現われて、その才能に目を止められ猛特訓を受ける。実は、クラブの存続をかけ、オリンピックをめざせ! なんだけど、それを自分なりに考え、受容し、のりこえる。さわやかで生きがよく、続編が待ちどおしい。
 『ひかりの季節に』(大谷美和子作、くもん出版)のみさきは六年生。三年前、兄のように慕っていたいとこが事故死してから、人はいつか死ぬと思うと、なにをしてもムダのように思え、輝きを失っている。要するに生きる理由がわからなくなってしまっていた。そんなみさきの前にやはり祖母を亡くして生きる理由をなくし、灰色の目をした祖父がやってくる。同じ悩みをかかえるふたりだが、やがておじいちゃんの目が輝き出した。近所に住むおばあさんと仲良くなったのだ。
「わかっていることは、ぼくは必ず死ぬ。だけど、今生きてる、それだけや」 そう、誰も死んだ経験はない。生を楽しむしかないのだ。近親者の死がきっかけで殺人! なんてことのないように、愛情や希望といった見えないものの価値や自分の存在はどこにあるのかということも考える一冊。子どもも大人も生きる目的があやふやになった今、「何のために生きるのか」という命題は、きっと死ぬまで続くのだろう。
 『ホラーキャットのホラーな一週間』(ファイン作、灰島かり訳、評論社)は文句なく楽しい絵童話。猫なんだから鳥を捕まえたり見つけたネズミの死体を持ち込むのはあたりまえ。それなのに、家族は泣いたりわめいたりの大騒ぎして残酷な猫と非難する。とうとう隣の大事なウサギまで持ちこんだから家族は真っ青。でも、これって大きな誤解。隣を気にした飼い主たちのあわてぶりとつくろうための芝居に吹き出してしまう。家族のドタバタぶりと不満顔の猫がとってもユーモラス。
 『どのくらいおおきいかっていうとね』(舟崎靖子作、にしかわおさむ絵、偕成社)は読んであげるのにいい絵本。暖色の単純な絵はクラシック風。くり返しの話とともに安定感がある。
 くまの靴はきつねのリュックくらい大きくて、はりねずみの車くらい大きい。くまの鍋はうさぎのお風呂くらい大きくてねずみのプールくらい大きい……のくり返し。読んだあと子どもたちと遊べる。ありさんの何くらい大きいかなあ−などと。(平湯克子)