1979/07

「ポリーとオオカミ」の関係を、「ジョーイと池」ほどに深めることは、無理なのだろうか。

           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 前回でこの時評の担当は終了することになっていたところ、後任の方のご都合で、あと三回、引き続き受け持つことになった。時評は、恐らく五年、十年と息長くやる性質の仕事なので、少しでも長くやれることを喜んでいる。
 四月に入って、新しい受講生を前にして、また「児童文学とは何か」を語る時期がめぐってきた。七十か国、二百人をこえる写真家による『写真集 世界の子供たち』(新潮社)のページを繰りながら、どんなアプローチをとろうかと考えている。この写真集に切り取られてきた子どもたちの状況の、文化の多様なこと。壁に目かくしをされ、両手をあげた子どもを処刑しようとピストル(らしきもの)をかまえてねらっている数人の子どもたちのごっこ遊び(シシリー)や入墨屋さんの前で、腕に入れたばかりの入墨をみせあって満足気な若いカップル(アメリカ)など見ると、自分がこれから語ろうとする児童文学なるものが、カバーしている範囲の狭さに、身のちぢむ思いがする。

1.岩波ようねんぶんこ≠ノふれて

 いわゆる幼年童話とよばれているものの保守性については何度か述べてきたが、新しい岩波のシリーズでも最初の五冊はもとの出版年が一九三一年が一冊、あと四冊は一九五〇年代のものである。そのうち二冊は他の出版社でも同時期に新刊として出版されている。絵本では、かなり新しい実験的なものも翻訳されてきているのとくらべると、その差は著しい。
 キャサリン・ストー作ポリーとはらぺこオオカミ』(掛川恭子訳 マージョリー・アン・ワッツ絵 岩波ようねんぶんこ3)
 キャサリン・ストー作『かしこいポリーとまぬけなオオカミ』(佐藤凉子訳 若菜珪絵 金の星社)(原本では十三篇入っているうち、岩波七篇、金の星四篇、内三篇が共通に入っている。)
 昔話に出てくるオオカミが現代の子どもの住んでいる家を訪ねてくるという設定がまずおもしろい。ストーは、子どもには、二つのこと、科学的に証明できる真実と、象徴的・詩的真実の両方を認める能力があることをよく知っている。子どもは、実際には、オオカミなど、家のまわりにいないことをよく知っていながら、それでもひょっとしたら、階段の下にひそんでいるかもしれないと思って怖がるのである。そこのところをうまく使い、かつ、昔話(ここでは、『ジャックと豆の木』『赤ずきん』『七ひきの子ヤギ』など)を下敷に使って、知恵のよく働くポリーに、食いしんぼうで間ぬけなオオカミがうまく扱われる話を楽しそうに語っていく。現代にも昔話や神話を創っていく行為がなされているのだから、伝承文学を、時代も状況も全く違った今の子どもにそのまま伝えるのはおかしいと考えているストーの一つの試みではあったが、オオカミには全く毒気がなく大人の矮小化した意味しか付加されず、昔話の批判的継承とはなっていない。それよりも、昔話を材料としてさまざまなバリエーションをつくる遊びに発展するような出来事になっていて、それはそれで、刺激をうける。二冊の訳書は 、それぞれよみやすい訳であるし、さし絵はお好みで、どちらでも。どちらにしても全訳で読みたかったと思う。
 リチャード・ヒューズモの宮殿』(八木田宜子・鈴木昌子訳 中村銀子絵 早川ファンタジイ文庫)(全訳)
 リチャード・ヒューズ『まほうのレンズ』(矢川澄子訳 井上洋介絵 岩波ようねんぶんこ4)(二十篇のうち九篇)
 ヒューズの短篇集がまだまとまった形で邦訳されていなかったことが意外な感じがする。ショート・ショートといってもよいぐらい短い話ばかりで、着想が奇抜であり、しめくくりかたに、にっこり納得させるうまさがある。著者が若いとき(三十歳ぐらい)の作品であるが、シニカルな苦みをほんのチョッピリ味つけしてあり、その調合がほどよくいっている。出版年がもっとも古いにもかかわらず五冊の中では、もっとも新鮮なものとして読んだ。
 訳も、さし絵も岩波版のものが、ヒューズの語り口と、おもしろい話の中にあるグロテスクさや悲しさをよく伝えている。勿論、大人の読者向きに出版された『クモの宮殿』は全訳であるので、ヒューズのしかけ方の種々相を楽しむのには、こちらをとりたい。
 久しぶりに、ファンタジーでさまざまのレベルの読者によみうる作品が出たような気がする。

 ルーマー・ゴッデン気なポケット人形』(猪熊葉子訳 アドリエンヌ・アダムズ絵 岩波ようねんぶんこ2)
 ルーマー・ゴッデン得意の人形を使った中篇である。まだガス燈の使われていた時代に小さい女の子の人形の家に入れるために購入された人形ジェインが主人公である。「あたし、ポケットに入って外にいきたい。」(14頁)と願うにもかかわらず、ずっとビーズのクッションの上にすわったまま、エフィ、エリザベス、エセルとその持ち主がかわっても、その願いはかなえられない。ある日、エセルのいとこのギデオン(七歳)が、やってきて外の世界につれ出してくれる。男の子が人形をもっていると仲間にからかわれる場面もうまく切りぬけ、ともに遊びを共有し、最後には、マスコットになるまでの物語である。
 人形に生命を与え、人形のもっている個性が発揮される場を用意していくゴッデンには、特有のもののいのち≠ノ対する感情移入がある。小さい人形一つの生命をここまでいとおしむ作者の筆によって、ギデオンも人形のジェインも実在感をもって作品の中で生きている。


2.はるかな国へ運ばれる二つの作品

 ユーリー・ストリジェフスキー再話白いあざらし―愛と勇気の伝説―』(島原落穂訳 木村しゅうじ画 童心社)
 シベリアに伝わる伝説の再話集である。雪と氷の国で語られてきた物語の美しさは、それが酷寒をくぐりぬけてきたものだけに格別である。「ゆうかんなエトウギと、<春>と、わるいトゥガークのはなし」を巻頭に九篇入っている。
 自然、登場する動物や悪霊、くらしかた、すべてが珍しく、スケールも大きい。「小川のまわりの雪が、とけはじめた。川は、しだいに大きくなって、流れていく。エイギンリーンとエミネーは見つめている。/谷間の雪はとけはじめ、ふたりのかたわらを流れる川は、もう小川ではない。大河が、谷間いっぱいに流れていく。ふたりは、氷の上に立った。すると、河は、ふたりののった氷を、山の主の国から、はこびさった。/河は、谷間から出て、ゆうゆうとツンドラを流れ、エイギンリーンとエミネーは、氷にのって、すすんでいった。/すすむにつれて、河岸の雪は少なくなっていく。こけが青みをおびはじめ、小さいべにまつが梢をのぞかせ、しらかばが、緑にもえ出した。/ふたりが、ふたりのヤランガのある岸辺におりたつと、ツンドラ一面に、黄に、白に、緋に、花がひらいた。」(110頁)春を待つ人々の気持が結晶して静かではあるが、力強い物語になっている。
 ド・モーガンの妖精たち』(矢川澄子訳 オリーヴ・コッカレル絵 岩波少年文庫)
 ドモーガンの作品は、六〇年代まで忘れられていたが、イギリスで再評価され、今また、日本にも紹介されたことは、彼女の作品の愛読者として、うれしいことである。彼女は、たった三冊の作品(どれも短篇集)を残しているだけであるが、ウォルター・クレーンを調べていて出会い、後に、ルイス・キャロルやロゼッティなどとも交わる部分のあることがわかった。
 『風の妖精たち』は、一九〇〇年に出版された最後の作品集で七篇入っている。二十世紀のファンタジーが成立する以前のフェアリーテールズの面影の濃い童話集である。ラブ・ストーリーの雰囲気はファージョンの『リンゴ畑のマーティン・ピピン』などにつながっていくかもしれない。タイトルになっている「風の妖精たち」にはよく彼女の特質があらわれている。人里離れた風車小屋という背景、風の妖精たちにおどりを教えてもらう少女リュシラという人物づくり、船乗りの若者との結婚、貧困、夫との別れ、王宮へおどりにいかされるリュシラ、様々の試練にも耐えて風の妖精たちとの約束を守るけなげなリュシラ、幸せな結末。
 一途な思いを持ち続ける少女像は、美しく、そして甘い。奥底には、心の移ろいやすい人間への諷刺や勝手なふるまいを許す男性社会への批判を秘めてはいるものの、あくまでも、妖精物語のもつ不思議さ、きらびやかさをそこなうことがない。例えば、ジプシーの娘が、絵付けをするシーンでは、次のように描写されている。「小さな鳶色の手を月光にさしだしました。きらきらひかる指輪だらけの手でしたが、しかしそうやって月のひかりを手のひらにうけると、さながらそこにあやしくきらめく液体がこぼれるばかり掬われたように陶工には思われたのです。」(87頁)
 恐らくは、地味に、少数の読者に受け入れられる作品集であろう。


3.おばあちゃんの確かさ

 『ヒルベルという子がいた』に続いてペーター=ヘルトリングの新しい作品『おばちゃん』(上田真而子訳 偕成社)が出された。両親を自動車事故で亡くしたカレ少年の五歳から十歳までのおばあちゃんとともに暮らすその生活ぶりを描いている。ともすれば深刻になりすぎるテーマに物事を実際的に処理し自分の生活スタイルを押し通そうとすることから生じるおばあちゃんの強さとおかしさで、真正面から切りこんでいく。
 巻頭から「六十七歳といえばもう年よりだと人はいうけれど、おばあちゃんは、それには反対だった。」とくる。おばあちゃんは、たくましく、頼りがいがある。パン屋にいけば、「ねぇ、あんたんとこのパンは、やせる療法でもさせているの? また、ちっちゃくなったねえ。そして高くね!」(34頁)と一言いう。
両親の家とは細かいところで違うことばかりで、とまどうカレと、とまどうおばあちゃん。章末ごとに、カレを育てるおばあちゃんの悩みが独白として書かれている。役所へ年金の交渉に出かけた場面などは、笑いを誘いながらも、世の中を相手に老人と小さい子どもが暮らしていく大変さを思いしらせる。また、世代のずれ、例えば何が正義であるかということでも、それぞれが別の思いをもっている大変さ、やりきれなさが、ユーモラスなシーンを通して浮かび上がっている。おばあちゃんは、カレに内緒でお酒を飲んでいる。理由をきくと、インフレや事故や病気やさまざまな不安にせめられたとき心をあたためてやるのだと説明する。カレは成長していく。「あの子がひとり歩きをしはじめると、わたしははらをたてている。ほんとうなら、よろこばなくちゃいけないのに。」(129頁)とおばあちゃん。おばあちゃんの入院、恐れていたことが起こったのだ。二週間後元気で退院してきたおばあちゃん。カレの十歳の誕生日、おばあちゃんはカレにこうした生活が永遠に続くことはないことをわからせる。
 これまでの児童文学で登場したおばあちゃんは、生活臭のない、どちらかといえば子どもにもう一度近くなった存在、遊び相手という役割が多かった。カレのおばあちゃんはまず一人の女であり、人生経験があり、生活をするために、痛風とたたかい、インフレとたたかい、役所やまわりの人々とたたかっている。そして、カレを引きとったことに感謝の心を持っている。普遍的な意味をもっているおばあちゃんそのものでありながら、しかもこんなにも生き生きと暖かく、個性的でありえるのは、ヘルトリングの思想性の高さとその表現力の卓越さにある。


4.とにかくおもしろい

 ロアルド・ダールの短篇集が出た。『ヘンリー・シュガーのわくわくする話』である。海ガメの背にのり海に出ていった少年、天才的なスリ、地中から宝物を掘り出す男、目を使わずにものを見ることのできる男……など七篇とも、何とも奇抜なフィクションで、着想も語り方もあまりに巧みなので、ついつい乗せられ、読ませられるという感じが残る。ダールのストーリー・テラーとしての腕は、ますますさえてきているようだ。「ヒッチ・ハイカー」という腕自慢のスリの話など、ダール自身を語っているようでおかしい。「この人生の秘密は、だれにでもできねえことに、腕をみがき秀でるということでさぁ。」(40頁)


5.ちょっと昔の一家の話

 ニーナ・ボーデンパーミント・ピッグのジョニー』(松本享子訳 評論社)は、E・ネズビッドの『鉄道の子どもたち』(邦訳『若草の祈り』)の伝統をひく、まぎれもなくイギリス産の作品である。エドワード朝、父親が失業したためアメリカに渡り、残された母親と四人の子どもたちが、ロンドンから母親の田舎ノーフォークに帰って田園暮らしをする、その<貧乏物語>である。
 ボーデンは、『帰ってきたキャリー』でもそうであったが、都会から田舎にきた子どもが感じる驚異、大人と子どもとのずれ、暮らしの現実とのぶつかりなどを、一人一人のくっきりとした人物描写とともに、丁寧に創り上げていく。
 母親の性格描写、おばさんたち(「サラおばさんと歩くのは、いつも授業みたいだが、ハリエットおばさんとの散歩は冒険にみちていた。」36頁)の個性、ジョージ、リリー、テオ、ポル兄妹のそれぞれの性格の違い、まわりの人物(特に貧しい友人のアニーなど)の効果的な配置がうまく出来上がっており、楽しく、暖かい雰囲気の中に人生の悲哀もきちんととらえられている。
 中でも、末っ子ポルの情熱的で、何ものにもむかっていく負けず嫌いの性格と、そこから生じる強情さのために、何度も窮地に追いこまれるさま、しかも率直で誠実なために愛されるという微妙な人間性が、非常に説得力をもっていて読みごたえがある。ポルが一つ一つ知っていく人生の表と裏、そのことをもっともよく象徴しているのが、ペットとして飼うペパーミント・ピッグの存在である。ペパーミント・ピッグというのは、生まれた中で一番小さく母さん豚が育てるには小さすぎてほっておくと踏みつぶされてしまう豚で牛乳屋がもってきてくれ、うまく育っていき、子どもたちのペットとなる。さまざまなペットのいるイギリスでも、ペットの豚というのは珍しく豚のジョニーとともにお茶の招待をうけたり、ジョニーの為出かす事件が一家の笑いの源にもなっている。しかし、大きくなりすぎた豚の行き先は一つしかない。悲しみに沈むポルにアニーはなぐさめる。「あたいだって、うちの豚が殺されるのはいい気持じゃないよ。でも、いつだって食べもんがたくさんあるんだ。豚が殺されたときにはさ」(205頁)と。ポルは時間がかかったが、その事実を受け入れられるようになる。一年がす ぎる。巻末で父親が帰国し、「いとしいポル、ジョニーってだれだい?」(215頁)と尋ねて物語は終る。起承転結のはっきりした細部も楽しめる物語ではある。


6.命あるものへの愛情にゆれる少年

 動物文学というレッテルを貼られる作品であろうが、ロバート=マーフィと池の物語』(藤原英司訳 偕成社文庫)は、人間の無意識の領域にまで掘り下げて読みうるほど深く少年の生命への愛情の変化を追っている秀作である。
 十四歳のジョーイとその友人バッドは、はじめて自分たちだけで親元から離れ、バージニア州の奥地にある沼と森の農園に出かける。そこにはベン爺さんがいて、こまごまと面倒をみてくれる。釣をし、はじめて隣家の犬チャーリーをかりてリス狩りをする。銃声と狩猟の興奮からさめた時、バッドは、リスの死骸に悲しみを覚え、もう狩りはしないという。それまで何もかもともに行動してきた二人であったので、ジョーイは友人を失ったことを感じる。次に出かけたのはジョーイ一人だった。「このまえはじめてバッドと森へはいったときと、まるでちがう感じだった。……あたりの森にたちこめる静寂が……ただの神秘的な静寂というより、どこか自分の目や耳の感覚がとどかないところに、自分にはわからないような秘密をかくし、おかしがたい威厳と妖気をはらんでいるように思われた。」(126頁)ジョーイはゴムのカエルを使って、池でももっとも大きいバスを釣ることに成功する。バッドをだしぬいた卑劣な行為のために、その成功を自ら認めることが出来ず、池にその魚をはなし、すすり泣く。ベン爺さんは黙って見守っている。自然と動物と一体になってくらしている黒人シャービー、父 から虐待され、独特の兄弟愛につながれているクロードとオーディ、車椅子の世界に閉ざされているホーラス、わずかな収穫しかあがらない貧しい土地の人間模様はきびしくジョーイの心をうつ。一人で沼沢を奥へ奥へとこぎ進み、無数の水路の中で帰り道がわからなくなったジョーイの状態は、思春期の少年のもつ、不安感をあますところなく表現している。三度目に出かけたとき、ジョーイは、カワウソにやられそうになったチャーリーをみて、カワウソを狩ることを決心する。くる日もくる日も、カワウソを待っている少年に、森は多くのことを語ってくれる。「森が静かでからっぽな感じのする時間もずいぶんあった。しかしジョーイはそういう空虚さと静寂につつまれた時間に、ふつうの人たちよりもっとおおくのことを知った。それは彼が忍耐強く、また時間があったからである。そんな時間にこの世の生命というものについて考えた。……動物たちはふしぎな第六感によってジョーイをさけなくなったが、……無意識のうちに彼は自分のまわりにいる動物たちに、同情と協調の気持ちをもつようになっていった。そしてカワウソにたいする彼の気持ちはかきみだされた。」(384頁)とうとう目前に カワウソがあらわれた。しかし、カワウソはヤマネコに追われていたのである。ジョーイが発射したのはヤマネコにたいしてであった。カワウソの呪ばくが解けて自由になったジョーイ。
 アメリカ文学に脈々と流れている少年のイニシエイションというテーマがここでも読みとれる。単に動物愛護の精神とか、モラルとかいう規律を超えて、動物を通して体得したのは世界の中での自分の位置、人間であることの意味であった。(三宅興子
「日本児童文学」 一九七九年七月号
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