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少数派をハッピイに描いた新しいタイプの“教科書”のことなど


 同じ“素朴な”というレッテルが貼れるが、その中味が全く違う二冊の画集が手元にある。書評の仕事をやりながら、いつも「読みごたえのある」とか「描写が適確である」とか「異色の作品である」とかいうレッテル貼りに終始しているのではないかと気になっている。
 一方は、省略できるだけ省略したヨゼフ・チャペックのパステル画集『青い空』(フランチシェク・フルービン詩 いでひろこ訳 偕成社)である。ボールのようにまんまるで、目も鼻も何も描かず輪郭だけの絵、どのページでも子どもたちが遊んでいる。読者が感情移入して細部を描くように誘い込んでくれる。ふと引きこまれると、ひととき遊んでしまう。
 もう一冊は、芝草の一本一本まで丁寧に描きこんだ素朴派の画家ヴィンセント・バッドゥルセイの画集想のギャロップ』(キャロリン・シルバー文 山口勝弘訳 CBS・ソニー出版)である。ゆるやかに起伏している丘、家々、教会、木々、羊や犬、空とぶ鳥、そして馬と人間。完璧に切りとられた一つの世界である。機会文明に毒されていない馬が中心にいる風景は暖かく心を落着かせる。素朴派があちこちで脚光をあびている所以であろう。
 時代も国も手法も違う二人の画家の画集がたまたま同時期に出版されただけのことであるが、“素朴”という言葉の内包するものや、現われ方の多様さについて考え込んでしまう。そして自分のしているレッテル貼りのむなしさも。
 
1 絵本『きりぎりすくん』

 アーノルド・ローベルのつくる絵本はいつも安定路線(絵本らしい絵本、定評のあるうまさ)上にあるにもかかわらず、どこか新しく、耳目をひきつけて離さない。最新作りぎりすくん』(三木卓訳・文化出版局)。かえるくん、がまくん、ふくろうくんに続いて、今回登場するのは、きりぎりすくんである。
 冒険に旅立ったきりぎりすくんは、六つの章の中で、りんごをすみかとしていて、そのりんごがなくなると次のりんごに移るというくらし方のあおむしや、掃除ばかりしているいえばえやぶんぶんびゅんびゅん飛んでいて何を見るひまもないとんぼなど様々の昆虫に出会う。奇妙な出会いを生きながら、きりぎりすくんは、「みちは、きりぎりすくんのいきたいところへ、どこまでもどこまでも、つれていってくれるのです。」(62頁)と旅を続けていく。決まりきった暮しやひとりよがりの狭さを拒否し続けるきりぎりすくんの旅は終わることがない。すっきりと立っている主人公の勇姿には、イソップの「ありときりぎりす」のきりぎりすのくらし方をむしろ是としているような現代性が感じられる。
 旅の終着が描かれていないことが、現代を象徴しているとすれば、読者である子どもたちも、これからのはるかなる旅に、身のふるいたつ思いがするであろう。

2 新しいタイプの“教科書”三つの傾向

 D・マコーレイの『カテドラル』『ピラミッド』が岩波書店から出版されたとき、絵本にまた、一つの可能性がひらかれたことが確実になった気がしていたが、今日ロンブスの航海』にふれ、ノンフィクションとして一つの主題をもちながら、それを越えて、人間の営みの不思議さを伝えてくるタイプとでもいうべきジャンルができ上ってきていることが了解された。
 『コロンブスの航海』(ピエロ・ベントゥーラ絵 ジァン・パオロ・チェゼラーニ文 吉田悟郎訳 評論社)も大型絵本である。コロンブスの時代の人々の世界観と、新大陸発見に至った航海の細部(どんな船で、食料はどんなもので、何人乗組員がいたかなど)、大陸の原地人の反応やくらしが実に興味深く語りおこされ、ある時は図鑑的に、あるときはパノラマ的に、絵で示される。「一四九二年(いよー くにがみえたぞ)、コロンブス新大陸発見」と暗記でしかなかったコロンブスの旅が、実在した歴史としても迫真性をもって浮かび上ってくる。すばらしい“教科書”である。
 『コロンブスの航海』で外にむけられた眼は、『も、めちゃめちゃに おこってんだから!』(エークホルム夫妻さく・え ビヤネール・たみこ・やく 偕成社)で内にむかう。スウェーデンの児童文学が世界に誇れるのは、『長くつ下のピッピ』以来の、子どもの心理をよく理解し、子どもの側や論理に立ったものを、いち早くキャッチし、文学性の高いものにするという伝統である。公害の子どもへの影響や精神衛生への関心のもたれかたも世界の先進国といわれる国々の中でも群を抜いている。『もう、めちゃめちゃに おこってんだから!』は、レーナという女の子のすさまじい怒りをテーマにしている。レーナはそのむしゃくしゃした気持ちをあれこれとめちゃくちゃにぶつけてみる。みんなのことを「ばか!」と罵倒し、みんなしんじゃえばいいと、心の中で殺人を犯す。レーナをなぐさめるのはねこだけ。「みんな、いや!」とふてくされているところへ、友だちから電話があり、「すぐいくわ!」という結末を用意して、怒りをおさめている。誰にでも覚えのありそうな幼児期の怒りを、紫系統の色をトーンにして大胆に描いてみせた。本がどこまで子どもの精 神衛生の力になりえるのか全く未知数ではあるが、こうした心理解放に役立つ絵本も大いにあってよい絵本であろう。
 同時に四冊、小型本で出版され、注目されるのは、“ハンディを負った子を理解するための本”(偕成社)というキャッチフレーズの、少数派を理解するのに役立つ、広い意味での道徳教育の“教科書”である。
 四冊の中で『ぼくもらいっ子なの』(スーザン・ラプスリー文 マイケル・チャールトン絵 邑田晶子訳)が説得力、抜群である。「ぼくのなまえはチャールズ。ぼくはもらいっ子なんだ。養子なんだよ。」と自己紹介し、もらいっ子であることを誇りにして生活を楽しみ、「養子ってね、パパとママの子どもだっていうことなんだよ。」というベッドでねている場面で終わる。16×15センチメートル、25ページの小型ながら、社会的背景よりも、幸せであるチャールズ君を前面に出して、一人の男の子の実在感をうえつけ、読後が暖かく、本当にいいね、という気持ちが残る。血による繋がりを今なお重んじすぎるわが国にあって(「実子特別法」を求める動きなど)、ひたかくしにされてきたもらいっ子をこんな風に描いている絵本にふれることは、それだけで、新しい教育といえるであろう。
 『パパはわたしのママね』(フェリシティ・セン作 バリー・ウィルキンソン絵 邑田晶子訳)は、四歳のジェニーの語る幸せな父子家庭である。母子家庭が様々の点で理解されやすいのにくらべ、父子家庭は数が少数(イギリスで5対1ぐらい)であることもあって取りあげられることが殆どなかった。しかし、核家族の次にくるのは、こうした一人親家庭であることは現実なのであって関心をもたざるをえないのである。原題はMy Family であり、こうした家庭も家庭なのだという当たり前の主張がみられる。かつて、大学の福祉の授業でこうした家庭のことを不当にも「欠損家庭」と習ったことを思い出す。世の中は変わっていくのである。
 『車いすのレイチェル』(エリザベス・ファンショー作 マイケル・チャールトン絵 邑田晶子訳)でも、ハンディはハンディとして受入れ、生き生きと生きているレイチェルを肯定的に描いて気持ちのいい出来になっている。
 『ぼくは耳がきこえないんだ』(フレディ・ブルーム作 マイケル・チャールトン絵 邑田晶子訳)は、前三冊と違い、耳のきこえないマーク少年が、魚つりにいって他の子にいじめられたエピソードを通じて、母親が子どもたちにマークの障害を説明するというストーリーになっている。手短に、要領よく本質をそらさず説明されている。
 子どもの本は、その成立時から「おもしろくて、ためになる」という二面を持っていたのであるが、「ためになる」部分が教訓性が強すぎるため否定されてきた歴史をもっている。ここで述べたような新しいタイプの“教科書”がどのように子どもたちに受けとめられていくのか見守っていきたいものである。

3 エキゾチックな昔話を楽しむ

 『せかい1おいしいスープ−あるむかしばなし』(さいわ/え マーシャ・ブラウン やく わたなべしげお ペンギン社)は、初版が一九四七年というからもう三十年以上も前の絵本である。昔話を再話し、その話にふさわしい画風を一作ずつ工夫してきたマーシャ・ブラウンの作品の中では、初期に属するものであろう。フランスの昔話「奇妙なスープ」を素材にしているということであるが、何とも貧乏くさく、かつ、豪華なごちそうの話で、貧しい村にやってきたはらぺこのへいたいたちのしたたかな知恵は笑いを誘うと同時に、それまでの苦労をしのばせてより複雑な感情もひき出させもする。
 ウラルの昔話は、美しく、かつ冷たい。さしえのユニーク『石の花』(パーヴェル・バジョーフ作 A・ベリューキン画 島原落穂訳 童心社)である。バジョーフの昔話集から「銅山のあねさま」「孔雀石の小箱」「石の花」「山の石工」「もろい小枝」の五篇が入っている。鉱山にまつわる不思議にみちた話の中に、働く者の立場から、村人のくらし、苦しい労働、その中にある職人としての喜びなどが描きこまれていて、共感される。苦心の訳のようであるが、その苦心のあとが残って見え、語り口も時になめらかさを欠いた不自然なものになっているのは残念である。
 アフリカの昔話から、魔法の話や精霊、魔神の出てくるものを十二篇集めたのは、『アフリカのふしぎばなし−キバラカと魔法の馬』(さくまゆみこ翻訳 太田大八画 冨山房)である。その風土になじみが少ないにもかかわらず、ひき入れられ、どれもこれも少々恐くてかつ楽しいものが選ばれているので時を忘れて読みふけってしまった。さし絵にも見ほれる。スケールの大きい話(「山と川はどうしてできたか」など)では、ため息をつき、身近な話の感じがする「カムワチと小さなしゃれこうべ」という、しゃれこうべにつきまとわれる男の話などではやれやれと結末で安堵をもらす。新しい昔話集として定着してほしい一冊であった。

4 動物と少年の物語

 子どもの本の内容を調査して、動物の出てくる割合を出せばどれくらいの高率になるだろうか。毎回、動物物語にふれないことはまずなかったといってもいいくらい人間と動物の関わりは深く広い。今回も、動物の環境問題をどこかできちんと書いている二冊の心ひかれる作品に巡り会った。
『アナグマ物語』(モーリー・バケット作 倉本護訳 評論社)は、野生の動物が怪我をしたり、トラブルがあるとつれこまれる「動物身体機能回復施設」を私費で運営している両親のもとで、動物を仲間として育ったジョン少年のもとへ、重い病気にかかっている小さなアナグマがやってきたことからはじまる。献身的な看病によって回復し、成長していくアナグマと、一家の悲喜劇の毎日が、抑制のとれた語り口でのべられていく。アナグマは無類のきれい好きで何でも片づけてしまい家族を困らせるシーンや、妹のソフィがアナグマが狂態を演じると大笑いして喜んでしまいしつけが出来ないところや、犬のテッサとの友情(?)のエピソードが何とも楽しい。
 両親の、自然の動物は自然に帰るのが当然という大前提にしている方針のため、アナグマもそのトレーニングに入る。そんなある日突然アナグマが逃げ出したまま帰らなくなる。突然の結末がこの作品全体の“実際にあった話”という感じを決定的なものにする。
 アナグマと人間がくらすことがどんなに双方にとって大事だったことか、そしてそれだけにその結びつきの純粋さが得がたいものにも思えるのである。中篇ではあるがほのぼのとした味はなかなかのものである。
 もう一冊、三部作のうちの第一作ということであるが、プロットの組み立てかたの巧みさと意外性が印象に残った作品があった。『チーターの草原−スマイラー少年の旅−』(ヴィクター・カニング作 中村妙子訳 偕成社文庫)である。
 スマイラーは十五歳とちょっと、教護学校から逃亡してつかまり、パトカーで送り返されるというところからストーリーがはじまる。落雷による事故のため警官が車をはなれたすきに、雨の中を逃げ出す。同じ時、動物園からチーターのヤラも逃亡する。妊娠していて落ち着かなかったのである。スマイラーとヤラという普通なら全く関わりあうことのない組み合わせがこうして出来る。スマイラーが見つけたあき家でひとときを共有して過ごし、また少年が偽名でみつけたケネルの犬の世話の仕事場と、ヤラが逃げこんだ射撃演習場が近くのため再会することになる。スマイラーは自分の運命とヤラのものをダブらせて考えるようになってくる。ヤラはそこで無事に二ひきの子を出産し育てはじめる。スマイラーはもちろん見守っている。孤独からさまよっていてヤラは牛の角によって殺されてしまう。スマイラーは子どもの世話に、さんざん迷ったあげくヤラのいた動物園に二ひきを置き去り、自分も好意にあふれていた雇い主や知り合いの前から姿を消していく。
 チーターというもっとも野性味あふれた動物が、皮肉にも、自然を没収し、土地の人を追い出した演習場で子育てをするというプロットはうならされるし、スマイラー少年の働いたケネルの女主人とその妹の取りあわせの妙と、その距離をおいて見守る真の親切のある方や演習場で密猟をしているが、スマイラーにはよき師であり友のジョーの人生観などが、楽しく、しみじみとして気持ちのよい脇役たちが生きている。身一つで文明の中にほうり出されたチーターの運命が重なり合うことで、ただ単に少年と動物のふれ合いというだけでなく、底に深い思想を沈めていることが、わかる読者には察知できるようになっている。次作が待たれる。
 翻訳時評を九回書きました。次回から、バッター交代です。毎回毎回、どんと積んだ本の山をくずしていくのは、とても楽しく、このような仕事だけをしてくらしていけないものかと、夢を見ていました。書評家というプロがいてしかるべきではないのかと持って行き場のない気持ちをウロウロさせています。ひどいという定評のある悪文につきあって下さった読者のみなさま、ありがとうございました。(三宅興子) 

 (『日本児童文学』1979/12)
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