翻訳時評

「日本児童文学」1978/06
三宅興子

      

 本をよむ楽しみを、反社会的な快楽であり、悪徳であると看破し定義したのは、清水徹氏である。生産性の全くない無益な流出であり現代社会の構成原理にまっこうから抵触している行為が読書であるとすれば、書評は、その悪徳をそそのかす社会的(?)キャンぺーンということになるのかもしれない。
 続々と送られてくる本を山に積んでほくほくとうれしい。一冊、また一冊と読みながら、芥川賞と直木賞と大宅壮一賞の審査員を一度に引きうけたみたいな気分でおかしい。大げさにいえば、これまでの私の読書体験のすべてで、その新しい一冊のにおいをかぎ、味わう。
 私は食べるものに好き嫌いが全くない。だからといって何でも食べてさえいればよいというのではない。学校の前のあわじや食堂の定食も、弟がコックをしているグリルのシチューも、老舗の手のこんだお料理も同じ「おいしい」という言葉でくくることができる。おいしいものを出す店を探し出して、友人とくり出す楽しみは格別である。
 本をよむ楽しみも、どこか食べる楽しみと似ていて、ある人がおいしかったと思っても、必ずしも他の人はそうは思わないことがあるし、特にくせのある味になると、そのおいしさは少数派のものになってしまう。翻訳ものといっただけで純枠日本語派の方は、ロにしない。その反対に欧風がロにあうようになっている方もいる。そこで、ここでは、できるかぎリ「おいしいものさがし」をし、さまざまのポイントからそのおいしさの質を論じていきたい。
 翻訳時評のおもしろさの一つに、訳されたものの、もとの出版年の幅がかなり広いことがあげられる。古典であっても本邦初訳であることがあり、現代の日本語を使って訳されるので、不思議な新しさを感じさせることがある。また、たびたび訳されてきたものでも新訳として出版されるものがある。また、もとのものはいいのに、どうしても翻訳によるとその味わいが出ない作家と、翻訳を通しても殆んど作品の質に影響のない作家がいるのもおもしろい。

1 古典の発見

「世界名作全集」などと銘打たれたシリーズは、次々と出てくるが、大抵は変りばえしないものとして書評の対象になりがたい。しかし、毎回のように入ってくるいわゆる名作であればある程、読者層も広いと思われるから、訳の出来栄えについて論じてほしいと、書評欄の読者として絶えず思ってきていた。ところが実際にやろうとしても、同じ本で何十種類という訳が出ている現実に圧倒されてその仕事は誰か他の人に期待しつつ、自分はシリーズの中の本邦初訳のものの読者になることに落着いてしまうことになった。(先人もそうだったのかとはじめてわかる)「国土社版世界の名作」や「春陽堂少年少女文庫世界の名作・日本の名作」などは目下進行中のシリーズであるが、「こんなものがここに入っていた」という発見があるのである。(一例として、キプリソグ作・亀山龍樹訳『キムの冒険』(春陽堂)
 古典といえば、クドナルド童話全集』(全10巻・太平出版社)があった。どちらかといえぱ翻訳にむかない方の作家であるジョージ・マクドナルドの作品を訳すことは、かなりの苦業と思われるので、読むつもりで机上においたものの、表紙の絵がどうみてもイメージにあわず(アーサー・ヒューズのオリジナル・イラストレーションが、私のオリジナル・イメージと強く結びついていることもあるかもしれない)、今日まで開けられずにいる。第10巻の『北風のうしろの国』でいえば主人公ダイアモンドが北風にだかれて空を飛んでいるシーンが表紙になっているのだが、北風の寒々とした中にある美しさや神秘感がなく、夢の世界の奥行きが出ていない。昨年の夏、出版されたマクドナルドの『黄金の鍵』(吉田新一訳・妖精文庫8・月刊ぺン社)の装丁と比較してみても、さしえに対する考え方(子どもが読者であるから、甘く童画風にするべしという)と、描き方の相違はくっきり出ていて残念である。むしろ作品世界をこわしてしまうのに役立っているさしえの問題は、この全集だけの問題ではないとはいえ、ジヨージ・マクドナルドのようなこの世にない感覚で構築していく ようなファンタジーには、それ相応の本づくりがあってほしいとつくづく思われる。

2 問題になりにくい作品

 書評のもう一つの難点は、子どもの読者に支持されるだろうとは思われるが、大人の評者がよんだ場合、殆んど問題にならない作品群があることである。文学性はないが、広い意味で教育性があったり、ある年齢の子どもが読めばその時期の自分の問題になりえて、共感のもてるような作品である。今回よんだものの中では、ぺパリィ=クリアリーのとりっ子エレンと親友』がさしずめそれに当たる。(松岡亨子訳・学研) "ゆかいなへソリーくん〃のシリーズの作者が一九五一年に書いたもので、エレンという女の子の三年生から四年生にかけての一年間の生活を明るく明るく、楽しく楽しくエピソードのつみかさねて描いていく。その中には友人との感情のこじれや、家庭の違いからくるずれ、様々の悩みももり込まれているとはいえ、ぜったいに人にいいたくない秘密が、旧式の毛糸の下着をきていることである、というように決して深刻なものにはなりえない。逆に、エレンが深刻であればあるほど、読者の笑いを誘うしかけがしてあって、自分も昔は、あんな風な子どもっぽいことがあったのだなあ、と成長の確信がいくようになっている。エレンもその親友のオ ースチンも生きいきと性格描写がなされ、それぞれの母親や先生、クラスメートのいたずらな男の子オーチスもよくいかされてはいる。黒板ふきをはたくというようなごくありふれた事柄もエレンにとっては大問題であることがよく書けてはいる。そして、うまい作者だと思う。
 紹介はできても、論じることのむつかしい作品である。アメリ力の楽天性が充分に通用したよき時代のよき市民生活の一面と知ることができると一九七八年の日本でいってもむなしい。この作品が児童文学を明るく楽しい向日性をおびたものと考えていた時代の遺産とすれば、今日の情況のなかにそうしたものを積極的においてみたいと訳者は考えておられるのかもしれない。
 一般的にいって大衆性のある作品はブック・リストには入っても、書評でとりあげられることが少ないのは、児童文学の書評がいまだ紹介的な役目をしていることと、いわゆる純文学も中間小説も大衆文学も同じ評者が同じコラムで取り扱って分化していないところあたりに原因があるのではないかと思われる。『ひとりっ子エレンと親友』のような作品をどう書評していくか課題にしてみたい。

3 翻訳文学の翻訳のあり方

 翻訳の技術がそれほどうまくなかった過去には、ハックルべリィ・フィンが東京山の手風の日本語をしゃべっていても、方言の訳といえば、田舎を明らかに蔑視したような使い方の東北弁ときまっていても、読者の方は、そんなものかと読んでいたかもしれない。また、同一訳者が、文体のそれぞれ違う作家のものを訳してそれが訳者自身の一つの文体になってしまっていても、問題を感じなかったかもしれない。
 しかし翻訳できることが特権であった時代とはわけの違う今日にあっても、内容とそぐわない日本語に訳されているもの、どんな作家であっても同じ文体で訳している訳者が後をたたないのは、どうしてなのだろうか。訳を批判する場合には、必ず自分の訳を示して批判するというもっともではあるけれど、厳しい作業が困難であるからだろうか。最近、児童文学の翻訳のあり方、技術がぼつぼつ取り上げられはじめたのは心強い。(月刊『翻訳の世界』に連載されていた神宮輝夫氏の"実践翻訳講座・児童文学"など)
 モーリー・ハンターの作品がはじめて紹介された。一九七二年の『魔の山』(田中明子訳・評論社)である。彼女は、一貫してスコットランドを背景にした作品を書き続けているストーリー・テラーで、歴史ものであれ、ファンタジーであれ、昔話や伝説の再話であれ、響きのいい、シンプルな文体で美しく語っていく。
 『魔の山』は、スコットランドにあるぺソ・マクデュイという山を舞台にして、その谷間の村に住んでいる『カリスターという頑固な男が、昔からの言い伝えを破って、「シー」という〃いい人たち"ともよばれる超自然の生きものへの贈りものの土地を自分の土地として耕したことから物語がはじまる。当然シーはあれこれと意趣返しをするが、マカリスターは負けなかった。マ力リスターの一徹さにうたれて結婚したぺギ-・アンとの間にファーガスという息子が生まれ五歳になるまで幸せな日々を過していたが、突然マ力リスターは消えたように姿を消してしまう。ぺギー・アンが村の占い女に占ってもらうと、シーにとらえられ、七年たつと生けにえにされてしまうことが判明する。結末は、息子ファーガスが成長して父親ゆずりの頑固さと的確さであらゆる責苦にも耐えぬいて、父を救い出すことになっている。ファーガス以降の子孫のことを手短に語り、実在する岩に言及して現代にも結びつけている。
 魔法が実在していた時代のスコットランドのハイランド地方の雰囲気が再現されていて、時間と空間を超えて物語の谷間に誘いこまれてしまう。訳もよく抑制がきいていて、力強い簡潔な文体をよく意識していると思われる。(山の名 Ben MacDui と主人公 Mac Allisterは何度も繰りかえされるのでMacというくりかえしが目にも音にも残るのだが訳の限界がこんな単純なところでも出てくる。
 『魔の山』にくらぺると、ジョーン・エイキソのさやき山の秘密』(越智道雄訳・冨山房)翻訳そ至難の技である。『魔の山』では、スコットランド的な感じがどこかで出れば登場人物もすべて土地の人だということがわかっているので、一つの文体をきめてしまえば、あとは容易になるのであるが、『ささやき山の秘密』では、作品の舞台が十九世紀初めのウェールズにとられているにもかかわらず、登場人物がそれぞれ違う話し方をするのである。ロンドンの下町なまりで盗賊の言葉を頻発する二人組、大叙事詩をかいている詩人のジプシー、強いスコットランド訛りの皇太子をはじめ諸々の人物。勿論ウェールズ訛りもどっと出てきて、それぞれの方言とそれぞれの階級語が作品のおもしろさのかなりの部分を占めているからである。
 この作品も、エイキンの他の作品『ウィロビー・チェースのおおかみ』『バターシー城の悪者たち』『ナソタケットの夜鳥』と同じ路線の作品である。(ウェールズを舞台にすると、ファンタジーにより近いものになるかなという読者の予想をはぐらかすように、超自然の存在であって山の中に住んでいるといわれる伝説上の妖精を、先住民族が隠れ住んでいるとして現実の人間にしてあったりして、でたらめながら結構おもしろく読ませられる)中国からウェ-ルズに帰ってきて学校に通っているオーエン少年が、ホークを頭にのせ、薬草や自然にくわしいジプシーの少女アラビスの協力のもとに、土地に伝わる黄金のティルツーの竪琴を、悪侯爵とその手先きの二人組のどろぼうから取りかえすまでを、オーエンの頑固そのもののおじいさんで博物館の館長や、何やら最初は正体の知れないラムのセルジューク公、土地の年寄たち、地底にすむ百二十代前ローマ人に連れてこられた奴隷職人の子孫の小人、はては英国皇太子までも動員してドタバタと描いていく。一歩誤れば、人物もプロットもあまりに出入りがはげしいのでゴチャゴチャになって混乱してしまう直前まで、構成要素を複雑にしているのはさ すがである。『ウイロビー・チェースのおおかみ』にはじまった古典的な冒険小説や歴史小説やファンタジーを一作の中でパロディ化してしまうおかしさと、脇役のつくり方、配置のしかたのうまさ、(悪役もどこか魅力があったり、人間的な弱さをみせたりする)は、エイキンの作品の魅力そのものである。読者の年齢や、読書体験によって様々のよみ方ができるという点でも卓越している。
 訳者は恐らく、訳をする苦労とともに、日本語の可能性への一つの挑戦としてあれこれ楽しまれたことと思われる。あとがきに「いちばん苦労したのは、皇太子のスコットランド訛りをどんな日本語に訳せばいいかということだった。上方弁は、公家たちのあいだでも使われていたわけだから、皇太子が使ってもおかしくはあるまいと考えた。……二人組のせりふには、盗賊の言葉がふんだんに用いられている。ピッタリな日本語の盗人言葉に置き換えると、児童書としてはむつかしくなりすぎるので、ほんの一部しか活かせなかった。」とある。原著では、巻末に、使われたウエールズ語の英語の対訳リストがのせられてある。どれだけの読者がそのリストをみるかは別として、わかってもわからなくてもここというところではウェールズ語を使用したエイキンにまねて、ぴったりの盗人言葉というのを読者として読んでみたかった気がする。二人組のやりとりは、英語圏の読者にも理解のむつかしいもので、よみとるコツを会得しないかぎり、その絶妙な二人の響きあいがつたわってこないようである。スコットランド訛りを上方弁にするという工夫は、いろいろの試みの一つ、言葉との戯れとしてはおも しろい実験であったかもしれないが、最終的に落ちついたものとしては、違和感が残る。
「なんやて、なんてこのわいがわがままなんやね、ちょっともわがままじゃあれへんで。せやけど、その暖かい酒を少しっちゅうのは、ありがとうちょうだいすることにするわ」P212)
「こりゃおはようさん、どこのどなたやらわからへんけど。ところであんた、若い衆連中に出くわさへんかった? このしょうむないほら穴ほっつき歩いとるはずねんけど」(P317)
("Hout,ma wean.Whit gars ye ca meeccentric? I′m na mair eccentric than ony ither body…but I shouldna say nay to a wee drappie of yon warm stimulant")
("And a gude mern tae ye too,sir whoe'er ye be.Have ye by any chance obsairved a wheen laddies roaming ayont this ill‐faured cavern?")

 公家が「わい」と自分のことをいったかどうかは寡聞にして知らないが、全体の調子からしてええし(関西弁でいい家のこと)のぼんのことばとしては無理な気がする。スコットランドという北の国には、北国の強い訛りが似合いそうで風格もでるような訳と、北国の生まれの方の助けをかりて試訳してみたい衝動に駆られる。
 誤訳については.敏感な訳者も、訳の文体ということではまだまだの感があるので、一例としてとりあげてみたが、『ささやき山の秘密』の訳は、全体として読みやすく、プロットの展開の早さによくついていけるものになっている。

「おいしいものさがし」の第一歩は、おいしいものを探す探し方が手さぐりのため、うまくいかなかったようである。おいしそうなものがありそうなのに探されていないところと意識しすぎたようである。もともと生産性を介さない行為を続けたあげくのはてに住空間を本の侵略のほしいままにまかしている体たらくの身には、例えばL・ノーマン作ドニーのふたご』(宮武潤三・順子訳・篠崎書林)(篠崎書林の本のつくり方で惜しいといつも思うのは、さしえが作品に必ず負けてしまっていることである)の現実感が健康的でまぶしい。出産時の混乱から間違われて別々の家に育ったふたごが、本当の息子とすぐ暮したいという一方の母親の性急な要求から、家庭をかわることによって起こる葛藤がテーマになっている。家庭内のこまごまとした描写、それぞれの家庭の違い、シドニーの町、子ども一人一人の性格づけがたしかで、かなりおいしい作品になっていることをこそこそとつけ加えた上に、一方の家はカトリック教徒で、もう一方はプロテスタントという宗教の違いが、子どもに及ぼす影響にふれられている点が細部のことではあるが、外国人の読者として興味深かった ということを、書きたしてしまうのは、読書という悪徳にとっぷりつかってしまった悪女の深なさけ的蛇足ではある。