子どもを視野に入れた本作りを

【翻訳】時評
西村 醇子

           
         
         
         
         
         
         
    
 昨年の回顧で灰島かりさんは「いい本がきちんと出てる!」と感想をもらしていたが、今年は「でも出版社はたいへんそう!」とつけ加えておこう。
 一九九九年十二月発行の『ず・ぼん』六号(ポット出版)によると、何年も前から児童書の売上げは前年を下回ってきているそうだ。翻訳権料や訳者に支払う分だけ儲けの少ない翻訳書が減らされているのは成り行きなのかもしれない。
 出版点数の減少により気になるのは、初版の部数がせいぜい三、四千部ということだ。しかも返本率は約四割。狭い門をくぐって出版されても、(最初から配本されない書店もあり)読者の目に触れずに終わる可能性は大きい。
 こういう状況下、出版社が大人の本棚に置ける本を狙う気持はわからないでもない。でもひとつだけ条件がある。それは子ども読者も視野に入れておくことだ。フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』(大久保寛訳 新潮社 一九九五)の場合<括弧内は原著出版年、以下同じ>。帯には「世界中の子どもと大人を夢中にさせている」と記され、振り仮名もあるが、子どもの本であることはわかりにくい。三巻完結まで待たずに各巻ごとに「あとがき」をつけ、ほかの訳書のことも紹介してほしいものだ。
 国際コルチャック賞を受賞しているヨアンナ・ルドニャンスカ『竜の年』(田村和子訳 未知谷 一九九一)の場合。子ども読者は最初から想定していないらしく「翻弄」「髪を梳く」などでも振り仮名は皆無。作者本人はとくに子ども向けという意識はもたなかったそうだが、間違いなく境界線上の本である。中学・高校生でM・エンデが好きな読者なら、人間が竜になるというこの寓話的ファンタジーにも喜んで手を出すかもしれない ----- 漢字に振り仮名があれば。

 書店ではなかなか実物を手にとれない時代、(書評の重要性が増すなら、嬉しいけれど!)マスコミに注目された一部の本が極端な売れ方をする。翻訳書ではJ・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』(松岡佑子訳 静山社 一九九七)がそれにあたる。でも、作品そのものではなく、作家など周辺の「物語」に注目が集まるのは不本意だ。
 確かに昨年はファンタジー作品に収穫があった。ただし『黄金の羅針盤』を横綱とすれば、『ハリー・ポッターと賢者の石』(以下ハリポタ)も、ブライアン・ジェイクス『勇者の剣』(西郷容子訳 徳間書店 一九八六)も、わたしの番付表では関脇か小結ぐらいにしかならない。
 イギリスの『ブックス・フォア・キープス』誌一一七号(BfK)によると、ハリポタはR・L・スタインの「グースバンプス」(懐かしい名前!)シリーズがやや飽きられてきたとき、タイミングよく登場したそうだ。読みやすい物語が子どもたちを引きつけ、分厚い本のページを繰る楽しさを知ってもらえたのは喜ぶべきことだ。だがしかし。
 改めて指摘するまでもなく、英語圏でも子どもの読書力の低下が問題となっている。ふだん本を読みたがらない子ども読者を多数ひきつけたことで「ハリポタ現象」(The Harry Potter Phenomenon)と命名までされ、珍重されている。でも『勇者の剣』以下の十二冊の「レッドウォール」だって、三百三十万部売れたのだ。
 ハリポタは面白い作品だが、瞳目するほどの目新しさは見られない。風間賢二氏はいみじくも「シンデレラ+寄宿学校もの」と分析したが、実際この本はつぎはぎ細工であり、伝統的物語の枠内にとどまっている。物語の展開はスピーディで、魔法の決戦もおもしろいが、似たような話はダイアナ・ウィン・ジョーンズも書いているし、彼女のほうがずっと上手!レッドウォールもまた剣と魔法の物語を、動物を主人公にして書いたもので、とくに新鮮とはいえない。(フェミニズムの視点からの不満もあるし……)。
 ファンタジーとしての衝撃度では『黄金の羅針盤』に尽きる。キャラクターに魅力があることや、それぞれがダイモン(守護霊)をもつという設定、そしてミルトンの『失楽園』を下敷きにして人間の堕落を描こうとするスケールの大きさ。そして権力争いに善悪のレッテルが貼られることを含め、人間性や社会の仕組みについて、なんらかの洞察や発見をもたらす、もしくはそのきっかけを作る作品である。カーネギー賞とガーディアン賞を受賞したこの作品について語るべきことは多いが、ライラとそのダイモンの魅力は特筆すべきだろう。C・Sルイスの女性像(とくにスーザンの扱い)批判的なプルマンは、この作品でも好奇心があり、行動的な女の子を描いている。大人の教えを鵜呑みにせず、ときに狡賢く自分の判断で危機を切り抜けるライラは、イノセンスに新しい定義を与える存在かもしれない。

 一方、現実を扱った作品は横綱不在。大関にあたるのは『モンスーン あるいは白いトラ』(クラウス・コルドン作、大川温子訳 理論社 一九八〇)と、ルイス・サッカーの『穴』(幸田敦子訳 講談社 一九九八)。前者は、ドイツの作家がインドを舞台にした異色の本。五八七頁もある分厚さは、(万人向けとはいえないし)読む前のネックになりかねない。でも読んでみると異質な世界を語るにはこのぐらい必要なのだろうと、納得する。貧しい大家族の長男ゴプー少年と、金持ちの子ながら孤独なバプティ少年を二つの軸として、伝統と習慣の壁や新しい社会への希求などが、ゆるやかなテンポで描かれている。タイトルはすべてに影響を与えるインドの大自然の威力を示している。
 読みやすいだけでなく、なんともシュールで面白いのが『穴』だ。ところどころにほら話風の誇張がまじっていて、「リアリズム」分野の枠組みに収まらない。ただの伝説的与太話だと思っていた「あんぽんたんのへっぽこりんの豚泥棒のひいひいじいさん」の事件が、数世代を経て決着という大団円は、してやられた!醍醐味といえよう。
 文体的実験といえば、ヴァージニア・ユウワー・ウルフ『レモネードを作ろう』(こだまともこ訳 徳間書店 一九九三)とマッツ・ヴォール『冬の入り江』(菱木晃子訳 徳間書店 一九九三)に強くそれを感じた。前者はスウェーデンの、後者は北米の若者を描いているが、共通するのはさらば「ライ麦畑」とでも言おうか、新しい表現を求める試みである。とくに「レモネード」は、全編が散文詩。ラヴォーンは大学進学を志す十四歳。ベビーシッター先が十七歳の未婚の母ジョリーとその子どもだったことから、劣悪な環境とそこを脱することの意義を学ぶようになる。ラヴォーンの日常、その戸惑いやジョリーへの苛立ちと優しさなどがこのスタイルで描けることに驚きを感じた。
 断片的に挿入されたエピソードを読者が再構成して完成するのが、ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房 一九九八)。主題は人と人のかかわりの不思議さ。手紙形式の物語は目新しくはないが、ミンディ・ウォーショウ・スコルスキー『友情をこめて、ハンナより』(唐沢則幸訳 くもん出版 一九九八)は、実在のルーズベルト大統領を文通相手にした設定が味噌。虚実混交のバランスがよく、楽しめる。
 さて、シリアスな内容をからっといやみなく描くという難しい技に挑戦し、成功しているのがジェリー・スピネッリだ。九七年出版の二作が、『ひねり屋』(千葉茂樹訳 理論社)『青い図書カード』(菊島伊久栄訳 偕成社)として出ている。前者は町全体がボランティアの名目で行ってきた残酷なハト撃ちの伝統に、たったひとりの少年が逆らう話。銃社会と誤った男らしさの概念がうむ弊害を描き出している。後者は短編が四つ、悩みをかかえた子どもたちがふと青い図書カードを手にすることで、どこか変わる話。

一方で、幼年向けから中学生あたりの作品層が薄い。そのなかで貴重な一冊が『キラーキャットのホラーな一週間』(灰島かり訳 評論社 一九九四)。さすがアン・ファインという作品だ。B・B・カルホーン『ハロウィーンの巨人事件』(千葉茂樹訳 小峰書店)やフィリス・ネイラー『アリスの恋愛テスト』(佐々木光陽訳 講談社)はいずれもシリーズ作品の四作目。前者はタイトルが内容とそぐわないのが欠点。でもこういうシリーズ本はもっとあっても良い。
 スペインの『イスカンダルと伝説の庭園』(ジョアン・マヌエル・ジズベルト作 宇野和美訳 徳間書店 一九八八)はアラビア世界の文化を感じさせる逸品。モンゴメリ『虹の谷』(掛川恭子訳 講談社)がはじめて完訳された。短編集ではS・クーパーほか『鏡』(角野栄子 市河紀子訳 偕成社)とG・クロスほか『ミステリアス・クリスマス』(安藤紀子他訳 パロル舎)がともに幽霊もので珍しい。(後者には拙出訳も混じっている。)紙面が尽きたので、読んだ本三十数冊を残し、筆者は<どろん>を決める。

「日本児童文学2000.5〜6月号」
テキストファイル化柴田冬実