ジャンルの混交あるいは生成について

目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 まずは、九九年秋に公開された『マトリックス』(ラリー&アンディー・ウォシャウスキー監督)から。主演のキアヌ・リーブス扮するネオは、CMでご存知のように、弾丸を華麗に避けていた。四ヶ月にわたってカンフーの特訓を受けたこともあって、キアヌの身体の動きは美しい。それは、最新の技術と融合した「新しい」映像体験であったと言える。しかし、その「新しさ」は、多くの識者が指摘する通り、「ジャパニメーション」(世界市場に流通している日本アニメ。『ポケモン』の全米ヒットは記憶に新しい)がようやく実写レヴェルで再現されたということを意味している。実写がアニメのように動かされることで生じるリアルさとでも言えようか。現実世界が超越者によってプログラミングされた仮想現実であるという本作の世界観以上に、実写がアニメのように立ち現れてくる奇妙に混交された体験の方がスリリングであった。
 風野潮『ビート・キッズU』(講談社)は、児童書なのに、少女マンガを読んでいる気分になる作品だ。前作『ビート・キッズ』(講談社、九八年)では中学二年生だった英二が本作では高校二年生。酒に賭事で転職が多かった父親も落ち着きを取り戻し、ともに病弱な母親と妹の病気も小康状態を保っている。前作に比べ、英二の家庭環境が安定している分、高校に進学してから始めたロック・バンドに専念している。それだけに、バンドが必ず直面すると言ってよいメンバー離散の危機など、音楽活動そのものが描かれることになる。「あとがき」で作者自身が述べている、『英二が出会う音楽そのものの楽しさ』がひしひしと伝わってくる作品だ。ところで、前作から気になっていたことなのだが、本シリーズには恥ずかしくなるようなストレートなフレーズが随所に出てくる。たとえば、「今の、七生のドラムが……花火みたいで。……ちゃう、ドラムは花火なんや!はじけて、光って、響いて、揺れてる、花火なんや。そやから、俺、花火になりたいねん!」(『ビート・キッズ』)。あるいは、「せっかくのほんとうの空色は涙でぼやけてしまったけど、キラキラ揺れてる空色の中に「ほんとうの 仲間たち」の笑顔がぼんやり浮かんでいて、最高にきれいな景色やった」(『ビート・キッズU』)。これらのフレーズが嫌味にならない作者の力量に、脱帽せざるをえない。しかし、このような体験は、これが初めてではない。少女マンガを読んでいて、似たような体験をすることがあるからだ。
 現在、『ララ』(白泉社)に連載中の少女マンガ「彼氏彼女の事情」(津田雅美)を例にあげよう。九九年三月までテレビ東京系で放映されていたので、周知の方も多いかも知れない。主人公の宮沢雪野は高校一年生で、才色兼備な上に、性格まで良い超優等生である。しかし、それは、他人に褒められたい、よく見られたい一心から、不断の努力で作り上げた虚像であって、彼女は極端な「見栄王」であった。曰く、「ほんとは私は誰より人に尊敬されたりアコガレられたり特別扱いされたりちやほやされたり一番をとるのが大好きなだけの――「見栄王」なのです…」。一方、雪野のクラスメートに、有馬総一郎という雪野と同じかそれ以上の超優等生がいる。ともに「超」を冠するにふさわしい優等生であるが、単なる「見栄王」である雪野とは違い、有馬には辛い「過去」がある。幼少期に虐待を受けていた有馬は、両親が蒸発したため、叔父夫婦に育てられていた。育ててくれた叔父夫婦のためにも、そして自分を捨てた両親のようなろくでなしにならないためにも、彼は欠点がない人間になるべく努力していたのである。雪野が「見栄王」であることに気がついた有馬は、彼女に惹かれていくと同 時に、得体の知れない「もう一人の自分」に気づいて不安になる。曰く、「もしかして、今まで「自分」だと信じてたものは 努力で創り上げただけの「ニセモノ」だったんじゃないのか」、「僕のなかにはもうひとり「ホンモノ」がいるのかもしれないけれど」。これほどに直截で素朴なフレーズが自然に表現できてしまうところが少女マンガというジャンルの長所であろう。果たして現在、どれだけの児童文学が「彼氏彼女の事情」ほどの説得力を以って、かようにシンプルな表現をなしえているだろうか。『ビートキッズ』シリーズに少女マンガの影響を指摘するのは容易いが(児童文学で美少年が登場するのも珍しい)、『マトリックス』のアニメのような映像に最新の技術が要されたように、児童文学が少女マンガとして生成するのには何かしらの「技術」が関与していたはずなのだ。「技術」の内容をうまく言語化できないのが残念。
 岡田貴久子『K&P』(理論社)と高桜方子『十一月の扉』(リブリオ出版)は、ともに宮崎駿アニメを彷彿させる。『K&P』は、ビキニ環礁水爆実験を題材に、それから五十年後の世界を描いたSFで、主人公のススムは、被爆した「死の島」出身の母親と南島に魅せられた日本人の父親をもつ少年だ。一ヶ月前に十一歳になったススムは、誕生日に祖父から譲りうけたカヌーを駆って、タブーとされている「死の島」に向かう。途中で遭難するものの、六本足のウミガメに導かれるようにして、「死の島」に到着。そこで、「どうひいきめに見たって、身長三センチ、体重五グラム」の女の子に出会う。どこかしら神聖な雰囲気をもつ彼女は、「おまえには異なる二つの血が流れ、異なる二つの国がおまえに属している。異なる領域に同時にある者は、秩序をこわして混沌を呼ぶ者。それが危機になることもあれば、大きな救いになることもあるだろう」と告げる。そして、十五歳の四月に横浜の高校に進学したススムは、ポルックスという名の不思議な少年と出会い、再び「死の島」に赴くことになる…。さて、私は先に本書をSFとして紹介したが、SFの部分が作品の核心にかかわっているため、 書評という性格上、言及することが出来ない。「あとがき」の象徴的な文章を引用するに留めたい。「ぼうぼうと花の咲き乱れる廃墟。(略)うららかに陽はかがやいてあかるい風景の中を、いかにも武骨なロボットが歩く。(略)花も小鳥もロボットも、とても幸福そうだ」。これは、岡田が言うように、宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』(八六年)の一シーンである。アニメがビキニ環礁水爆実験のような現実に重なる作者の想像力は、好ましく思った。
 一方『十一月の扉』は、『耳をすませば』(近藤喜文監督、宮崎駿プロデュース、九五年)に設定が似ている。中学二年の十一月、爽子は父親の転勤で引っ越すことになる。中途半端な時期ということもあって、二学期が終わるまで、爽子は女性ばかりが暮らす十一月荘に下宿する。十一月荘の女性たちと暮らしていく中で、爽子は母親と自分の関係を見つめ直していく。さらに本書には、母娘関係という縦糸に、『ドードー森の物語』という横糸が織り込まれている。十一月荘の帰り道、迷子になった爽子は、瀟洒な文房具店「ラピス」に偶然入る。そこで、表紙に絶滅した鳥のドードーの細密画が描かれた「端正で重厚な、芸術品」のようなノートを手に入れる。『ドードー森の物語』とは、爽子がそのノートに十一月荘にかかわる人々をモデルに書いた物語で、彼女は創作を通して濃密な時間を初めて体験する。『耳をすませば』の主人公の雫が物語を書くことになったのも、異国風な骨董品店「地球屋」で、気品ある猫の人形に魅せられたからであった。『耳をすませば』がそうであったように、爽子もまた「ラピス」に縁のある少年に恋心を抱く。ただ残念なことに、『耳をすませば』のような爽快 感は本書から得られない。これは別に欠点ではないが、『ドードー森の物語』が何度も作中に挿入されることに起因しているのかも知れない。もちろん、アニメの加速感を小説に期待するのは本末転倒であることは承知しているが、そのような可能性を夢想してしまうのは私だけであろうか。
 児童文学にボーダレス化が指摘されて久しいが、伊藤たかみ『ミカ!』(理論社)が「J文学」から参入してきた。「J文学」という用語は聞きなれないかも知れないので簡単に説明しておくと、雑誌『文藝』(河出書房新社)が主に九十年代の比較的若い世代の作品群に冠したインデックス。たとえば、同じく理論社から『キッドナップ・ツアー』(九八年)を刊行した角田光代がJ文学系の作家であると言えば、想像がつくだろうか。さて本書は、九五年に文藝賞を受賞した青春小説『助手席にて、グルグルダンスを踊って』(河出書房新社、九六年)の作者が書いた、おそらく初の児童書である。ミカとユウスケは、小学六年生の双子だが、性格は好対照。テレビゲームにパソコンが好きなユウスケに対して、ミカはスポーツ万能で生傷が絶えないばかりか、女扱いされると怒る「オトコオンナ」だ。別居中の両親が離婚して姉が母親に引き取られるなど、様々な出来事が起きるのだが、ある日、ミカは外見がモグラに似た「涙」で生育する正体不明の生き物を発見する。ミカに「オトトイ」と名付けられたそれは、「涙」でどんどん大きくなってしまう…。それにしても、「オトトイ」という名前は意 味深長である。ミカは「一昨日」に見つけたからだと説明するが、「一昨日」とは翌日には三日前になる相対的な言い方だ。「オトトイ」という名前は、通常であれば三日前になっているはずの出来事がいつまでも「一昨日」に留まっている印象を与える。「オトトイ」に流された「涙」は「過ぎ去らない過去」に縛られた負の感情なのかも知れない。蛇足だが、ウサギのイラストで飾られたカバー下の本体には、小学生の女の子と思われる被写体のスカート姿(下半身のみ)がプリントされている。これはJ文学のノリなのだが、J文学を児童文学でパッケージしたとも読め、興味深い。
(『日本児童文学』00/0304)