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 コンビニや道路沿いの雑誌店辺りに出向いてみると、その店のある一角にたむろする子どもたちを発見できる。彼らは互いに会話をするでなく、しないでなく、サイズは小さいが厚みは電話帳よりもある同じ雑誌を真剣に立ち読みしている。もちろん『コロコロ・コミック』。言うまでもなくそれは、昨今の子どもの流行を作りあげてきた。ミニ4駆、ポケモン、ハイパーヨーヨー。彼らは『コロコロ』から情報を得、自らのものとすべく研鑽し、学校で、友達の家で、競技場で、それを披露し、またそうして自ら修得したり発見したりした情報や技を交換もする。つまり、『コロコロ』は「私と世界」を繋ぐためのアイテムとして機能している。
 児童書はこの、「私と世界」の繋がり方を子ども読者に提示することが多い。作者がそう望もうと望むまいと、子ども読者までを視野に入れて物語を書くなどという行為への欲望の中にそれはもう含まれてしまっているのやろうね。
 16歳のセリーヌはパパの再婚相手、22歳のキャサリンと同居中。というのは、パパが「歳がこんなに近いんだから、共通する話はたくさんあるはずだよ」と言って「ヨーロッパの七つの大学を回る講演旅行に出かけて行っちゃった」から(んばれセリーヌ』ブロック・コール 戸谷陽子訳 徳間書店)。絵描き志望の彼女はそれを、「パパって途方もない想像力と、限りない希望の持ち主」といった、自分も含めた事態、状況を眺め分析する仕草でしのぐのやね。隣家のバーカー夫妻の息子、7歳のジェイクと二人で、自分が描いた絵を踏みつけて遊んでいるときも、「アーティストってみんな、自分の創った作品が嫌いなんだから」というわけだ。しかしそうしたやり方に満足しているわけではない。夏にフィレツェにある友達の別荘へ行くつもりだけれど、「わたしは帰って来ないつもり」なのだから。物語はいままさに両親が離婚しかかっているジェイクを配すことで、セリーヌに「私と世界」の繋がりをもう一度再チェックさせる。口に出しては言わないけれど、「ジ ェイコブ。やっぱり現実を直視した方がいい。家族の暮らしは終わリよ。あんたには、離婚を思いとどまらせるほどの価値がないってわけ」といった思いはセリーヌ自身の抱える痛みでもある。物語のクライマックスはセリーヌがママを大好きだったある情景を思い出す所なのだけれど、それは読んでのお楽しみ。「こんなにまっすぐ児童書である作品も近頃珍しい」、と言ったらあなたはそれを批判だと思う?
 三輪車しか持っていないベスが自転車に乗れるまでを描くてんしゃにのりたい!』(グレギー・ドゥ・マイヤー作・絵 野坂悦子訳 くもん出版)。「ぺダルをこぐのよ。ぺダルをこいで、バランスをとるの」「かんがえすぎちゃ、だめよ。やってみれば、しぜんにのれるんだから。とにかく、からだを、ずっとうごかしていること」。なんの説明もいらない「私と世界」の繋ぎ方やね。これ。
 そして自転車でもう一つ。い自転車』(ディディエ・デュレーネ文 ファブリス・テュリエ絵 つじ かおり訳 パロル舎)。ルィーズの赤い自転車だったぼくは彼女が大きくなって売られてしまう。「永遠に友だちだと思っていた」のに!ぼくを買い取ったおじいさんはぼくを分解し修理し、色を塗り変え、ぼくは青い自転車になる。寄付金集めに売りに出されたぼくを、それと知らずパパはルィーズの妹のために買ってくれる。「小さな自転車の人生なんてつまらないものさ。(略)でも正直にうちあけると、ぼくは文句をいうつもりなんてなかった。ぼくはまた家に帰れるんだ。また楽しくくらしていける、それが一番大事なことだ」。たとえもう赤い自転車でなくとも。誰もぼくをぼくだと知らなくとも。(ひこ・田中)
読書人1998/05/22