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『児童文学批評の展開』(ピーター・ハント編白百合女子大学児童文化研究センター刊)のあとがきは、「子どもを読者としてもたなくては成立しない「児童文学」は長い間暗黙のうちに「文学」としては二流以下の存在であるとみなされてきた」(猪熊葉子)と述べ、その理由のひとつに、「子ども読者に対する不信ないしは軽蔑の念が大人の側にあった」ことを指摘する。
例えば、このフレーズの「子ども(児童)」を「女」に、「大人」を「大人の男」に置き換えても、「文学」に関する言葉として成立してしまうのはもちろん、「文学」(に限らないけどね)の価値の承認のために大人の男が、「大人の男」と「女子ども」との間に境界線を引いたからやね。それに対して、文学の言説が人間のそれと偽装していても実は、大人の男の言説に過ぎないことを、女たちがフェミニズム批評によって暴き出したことは、いまさら確認するまでもない。
児童文学に関わることで言えば、このジャンルがいかにジェンダーに染められているかをフェミニズム批評は明らかにしつつある。定番の古典で示せば、『若草物語』『赤毛のアン』『秘密の花園』といった物語が呪縛されているジェンダーを。いくら「子ども向け」の「文学」であろうと、いやいや「子ども向け」であるからこそ、社会(大人の男)が要求する価値観に女の子と男の子が染まるために、児童文学は使用されたことを。
つまり、「女子ども」の中の「女」に関してはとりあえず、批評の目は届いている。ところが児童文学にはもうひとつの項がある。それは、子どもを読者の中に想定しているわけやけれど、実は、大人の言説である事実。男(の言説)に女(の言説)が異議申立てしたようには、児童文学に関してそれをできるものは、作家や批評家や研究者という大人なのか?
基本的に多くの児童文学は、子どもの言説を偽装することで成り立っているし、それを放棄することもできない。これはとてもシンプルで、だからやっかいな問題であるかもしれない。私は、そのことを児童文学が卑下する必要はなく、むしろ力となりうると考えているが、忘れてはいけないとも思う。
「力となりうる」という発言は、なんの解決でもないのだから。そのことも含め、この訳書は、児童文学に興味のある、特に学生にとって、必読書だと思う。ここには、批評・研究のためのヒントがたくさんある。
収載されている講演録中で、J・R・タウンゼントは、「児童文学は、いまのところはまだ、知的レベルではめったに議論されることがないのです」(尾崎るみ訳)と述べているのだけれど、これが1971年。約30年後の、猪熊による「あとがき」が、ほぼ同じであるのは、まだまだ何も進んではいないということであり、やりがいもあるということやね。
インドネシア系オランダ人マリオン・ブルームの自伝的作品『マタビアは貝のおまもり』(野坂悦子訳岩波書店1600円+税)は「子どもの言説を偽装」という点で、今月読んだものの中では群を抜いていた。夜、両親が結婚式に出かけている間、弟妹の世話をしながら留守番をする、シルという少女の心に浮かぶ、思い出から空想までを描いた物語なのだけれど、シルの心に入り込んでしまった錯覚にしばしば陥った。ひょっとしてそれは私が想像する子ども像とシルが合致しただけなのかとも考えるけれど、それだけではない何かがある。(ひこ・田中
読書人 98/01/23