94/02

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 子どもの本にとって、挿絵の果たす役割というものは、極めて大きい。それは、文にも増して、読者である子どもの心に取り込まれ、その作品(本)に対する印象を決定づける。子どもの頃、同じ作者であるというよりも、同じ画家の挿絵であるという理由で本を手に取った経験をお持ちの方も少なくないと思うが、実にこの経験則が教えてくれるのは、(多くの)子どもにとって作品とは、文字表現の産物としての〈文学〉であるよりも先に、まず〈本というもの〉であるということだ。
 にもかかわらず、子どもの本の領域での、このことに関する研究や言及が驚くほど少ないのは不思議だが、まあ、それはきっと、この経験則があまりに明白すぎるせいで取り立てて問題にされないんだろう。それとも、「子どもに読ませる本は(分かり易くするために、あるいは、飽きさせないように、等々の理由で)挿絵が多くなければならない」という、大人たちのゆるぎない信念の結果の、「子供向けの本には挿絵が多い」という既成事実がドップリと定着し、いつの間にか、それも子どもの本の属性として考えられるようになってしまったんだろうか。 というようなことで、子どもの本の挿絵における美的評価基準なんていうのは未だにないので、あくまで僕の好みの問題ということになってしまうが、このところ岡本順という画家の挿絵が気に入っている。彼の絵は、絵画的というよりも、どちらかというと写真的な趣があり、特に、広角レンズで斜め上四十五度あたりから捉えたような子どもの立ち姿は、たいへん印象的である。長崎源之助のボク、ただいまレンタル中』(ポプラ社)など、テーマを台詞でべらべらしゃべくりまくるというあまりにコドイお話づくり を押してさえ買ってしまったのは、ひとえにこの画家の挿絵だったせいなのだが、実は今回も同じ理由で、佐藤さとるふしぎなあの子』(あかね書房、一二00円)を買ってしまった。
 作者、佐藤さとるは、一九五五年前後以降に生まれた読書好き少年少女たちにとって大変に馴染み深い、あの『だれも知らない小さな国』に始まる「コロボックルシリーズ」等の、諸々のファンタジー作品によって戦後日本児童文学に不動の地位を占める作家である。彼の作風は、緻密な描写によって支えられたリアリティあふれる作品世界にその神髄があり、やはりこの『ふしぎなあの子』も、そういったファンタジーに仕上がっている。海辺の町から山のちかくの町に越してきた五歳の「あいちゃん」は、ふしぎな男の子「やまひこ」と出会う。「ヤマのこころ」であり、精霊である彼は、あいちゃんの友だち「てっちゃん」を手本にして人間に化身している。ここで展開される出来事は、実にささやかなものの積み重ねであるが、しかし、それはこの物語のテーマである、開発に晒される寸前の自然にささやかに触れるということと同義である。
 ところで、ここで興味深いのは、この作品のモチーフ〈自然/開発〉の処理の仕方である。というのも、佐藤はデビュー作『だれも知らないー』において、これとほぼ同じモチーフを使っており、そこでは自然を象徴化させた地つきの精霊コロボックルに彼らの住まう土地の開発を積極的に阻止させている。ところが、今回の『ふしぎなー』では、精霊の「やまひこ」はは開発に晒された土地から離れ、さらに山奥へと新たなる住居を求めて旅立っていくのである。本書のあとがきに示されるように「幼い子たちの純な目で、様変わりしていく自然や風景や環境を見つめていくような、そんな物語が書けたらいいな、と思ったのです」という作者の思いは、確かにこの作品に実現されている。しかし、この〈自然/開発〉というモチーフの処理の違いは、作品のそれぞれの個別性の問題に還元される程度のものなのだろうか。この両作の差異は、僕には、作者のファンタジー作品に対するスタンスの取り方の変化に思えてならない。それは、作品そのものが読者にとってのアジールとなるのか、あるいは、登場人物たちの心の中に生成するアジールとなるかの違いだが、この問題は、今後の作品を待ちつつ、是 非とも測ってみたいものである。 (甲木善久)

読書人 1994/02/14
テキストファイル化 妹尾良子