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 この一年ばかり有害コミックが問題になっている。その前に黒人差別問題で「ちびくろサンボ」がやり玉にあがっていたけど、あのときとどこか雰囲気が違う。性表現と黒人差別が抱える歴史的分脈の違いもさることながら、母親たちがいきなり公権力にアクセスレたことや、「サンボ」のときのように、その作品と自分の子ども時代がリンクしている大人の擁護者が決定的に欠けていることが気になった。これが読み継がれる児童文学と読み捨てされるコミック(とくに雑誌) の差だといってしまえば、大方の人は納得するかもしれないけど、実際にはコミックの方が児童文学よりよっぽど巨大な文化になっているわけで、規制が与える影響力もはるかに甚大だと思う。
そこでじっくり読んでみたのが「『有害』コミック問題を考える」 (創出版、一千百円)。運動や規制の経過がよく整理されているし、賛否両論に目配りがきいていて、なかなかつっこみがいい。その中で気になったのが、「青少年の健全な育成」という規制を求める側の論理だ。ようするに「子どものため」ということ。児童文学でもよく聞く物言いで、「子どもへの愛情の現れ」ということになるんだろうけど、これがあやしい、あやしい。やっぱ、それを大義名分にして公権力に頼るあたりに、結局自分が子どもと一対一で向かい合う自信のなさみたいなものが透けて見える。月刊「子ども」八月号(クレヨンハウス、二千六十円)の特集座談会「エッチな問題」で弁護士の角田由紀子が、規制を求める大人たちの本心は、子どもに有害だということより、「とりあえず自分の視野からそれを排除して、自分が安心したい」ってことじゃないかと感想を述べているけど、ぼくも同感。
それで思ったのが、九月半ばに岩波ホールで封切られるアンジェイ・ワイダ監督の新作「コルチャック先生」のこと。コルチャック先生は今世紀前半に子どもの人権を真剣に考えた大人のひとりで、小児科医のかたわら「子供のための美しい国」(晶文社刊)という児童文学を書いたり、孤児院を主宰したりしたユダヤ系ポーランド人。ナチのポーランド侵攻後、ワルシャワのユダヤ人ゲットーに移り、一九四二年に孤児たちとともにトレブリンカ強制収容所で命を落とした、ポーランドでは伝説的人物だ。
映画の方は全編モノクロで、陰鬱な時代のようすと時代に翻弄されながらも信念をもって生き抜くコルチャックの姿が切々と清感豊かに描かれている。でもこの物語、決して美談じゃない。映画の冒頭で、コルチャックはラジオのマイクに向かってこんなことを語る。「トランプに、お金をもうけることに…夢中になる人がいるように、私は子どもを愛する。私は身を捧げるようなことはしていない。私は子どもたちのためにやるのではなく、私自身のためにやっている。これは私にとってただ必要なことなのです。犠牲的な行為という書葉に信をおくべきではない。その言葉はしらじらしい嘘なのです」
「子どものため」といわないところが、ものすごくいい。他者に身を捧げるという行為は美談になりやすい。それが「子ども」だったりするとなおさらだ。だけど「子どものため」を「御国のため」と言い替えたらどうだろう。その差はほんの半歩にすきないと思う。嘘だと思ったら、石坂啓の短編漫画集「正しい戦争」 (集英社、七百円)に収録されている、戦中の婦人たちとその戦後を描いた「白の軍団」を読んでほしい。そもそも他者のために生きるなんてことができるんだろうか。結局は他者を通して自己実現をめざしているだけのような気がするし、「しらじらしい嘘」だとコルチャックにいわれたら「ハイ」と答えるしかない。
ぼくらがこぞってコルチャックになれるはずはないけれど、ぼくは「子どものため」という言葉だけは使うまいと思っている。たとえ児童文学に関心を持つひとりだとしても。(酒寄進一)
読書人 1991/09/09
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