回顧/2000

           
         
         
         
         
         
         
     
 絵本で印象深かったのは、『ミツバチのなぞ』(ジョアンナ・コール:文 ブルース・ディーギン:絵 藤田千枝:訳 岩波書店)、『ヒガンバナのひみつ』(かこさとし 小峰書店)、『にたものランド』(ジョーン・スタイナー まえざわあきえ:訳 徳間書店)、『おちばのしたを のぞいてみたら・・・』(皆越ようせい ポプラ社)などの非物語系。それは物語絵本が衰退しているからではなく、短い尺で作品世界をひろげる絵本のスペックが、希薄なリアルしか感じられない日常世界に本当はあるはずの隠れた深度を提示しやすいものだからだ。例えば『ヒガンバナのひみつ』では日本全国三二〇種類の異名を読者は知るが、これはヒガンバナたった一つを絵本の尺に納めたから可能な事態。もちろん、すべての植物のすべての異名を掲載した植物百科事典は作れるだろうが、その膨大な尺は、とても一読者の手に余り、その前で呆然とするしかない。重要なのはヒガンバナの三二〇種の異名を覚えることにあるのではなく、ヒガンバナ一つにそれだけの名が与えられている日常世界の深度を感じることにある。『ミツバチ』ではミツバチの、『おちばのしたを』では極小生物世界のそれを感じること。そして、絵本から目を外したとき、希薄なリアルであった周りの様々な事物もまた同じような深度を持っているかもしれないと思うこと。そうした可能性をこれらは持っているのやね。他に、強烈な一発芸『あくび』(中川ひろたか:文 飯野和好:絵 文渓堂) にはやられたし、『あの子』(ひぐちともこ 解放出版社)はシンプルな顔の表情だけに絞ることでイジメの根幹の一つをえぐって見せてくれた。文と絵がガチンコでアリスワールドを描き直した『アリストピア』(天沼春樹:文 大竹茂夫:画 パロル舎)、昔話の意匠で現代の親子問題を包み込んだ『あざみ姫』(ヴィヴィアン・フレンチ:文 エリザベス・ハーバー:絵 中川千尋:訳 徳間書店)なども買い。
 物語では、『ハリー・ポッター』(J・K・ローリング:著 松岡佑子:訳 静山社)、『ライラの冒険』(フィリップ・プルマン:著 大久保寛:訳 新潮社 )両シリーズの二巻目が出、『ネシャン・サーガ』(ラルフ・イーザウ:著 酒寄進一:訳 あすなろ書房)の一巻目が出と、長尺のファンタジーたちが元気。来年はもっとたくさん訳出されるはず。おもしろいのはこの三作品がともにパラレル・ワールド設定となっていること。完全な別世界を作り上げるには、実世界はが強固にあると信じられている前提が必要だけど、それが揺らいでいることに原因はあるやろうね。ここにもリアルの問題が顔を出している。
 『第八森の子どもたち』(エルス・ペルフロム:訳 野坂悦子:訳 福音館)や『砂のゲーム』( ウーリー・オルレブ:著 母袋夏生:訳 岩崎書店) は、戦時下の子どもの自伝的な物語だが、戦争悪ではなく彼らが体験した「子ども」を着実に描くことの方が戦争を知らない世代に結局は一番、そのリアルを伝えられるのだということを再確認させてくれた。
 『ダンデライオン』(メルバン・バージェス:著 池田真紀子:訳 東京創元社)の、ヘロインの溺れていく子どもたちの徹底した描き振りは忘れられないし、一六歳が書いた一六歳の物語『クレイジー』(ベンヤミン・レーブルト:著 平野卿子:訳 文芸春秋社)の真っ当なモラルが活きている様も興味深かった。また、本当に子どもなのかわからないままやってきて、去っていく小学生トシオを置いた『バンビーノ』(岡崎祥久:著 理論社) は、子ども像と現実の子どものズレとも通底し読ませた。ネット上の書評において「この小説をY・Aとか児童文学というジャンルでくくるのはもったいない」(永江朗 bk1)との言葉があったが、『バンビーノ』はそれが児童文学として子どもを描いたからこそ、おもしろい。だからもったいないのやなく大人ももっと児童文学に興味を持てばいいのやね。
 この時評を担当した四年間はちょうど「子ども」と「子ども像」の乖離が無視できな兆しが現れてきた時期であったから、そんな時代を呼吸している物語たちを中心に、アニメやゲーム、コミックスと同列に並べて書いてきた。長い間、読んでくれておおきに!読書人