04/2000

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 PS2は初回出荷の後、店頭から姿を消したままで、それは生産される台数がネット販売で消化されてしまっているからなのだろうが、ソフトの方は大物タイトルが出始めている。『鉄拳』の新作もそのひとつで、現在ゲーム屋ではデモソフトの目玉。確かに登場人物たちのグラフィックスの精度はPS時代と比べていいのだけれど、私にはリアルさが後退して見える。薄っぺら。おそらくそれはPS時代、私たちは自分の想像力を付加してリアルに仕立てていたのに対して、PS2の場合その付加する余地が少なくなってしまっているからだろう。これは、より精度があがれば解消される程度の問題なのか、リアルそのものにかかわることなのかはまだわからないが、興味深い。
 さて児童文学。『時を飛ぶUFO』(高橋克雄 岡本順:絵 小学館)は「未来の地球を守るのはきみだ!」と腰巻にあるように、このまま自然破壊が続けば地球と人類がどうなってしまうかを、未来人がやってきて主人公たちに伝える物語。その未来人は巨大な脳だけの姿になっていて、そうなってしまってもいいのかと訴えるのだけれど、今の人間の姿形を善とし、そこから逆算してマイナスに置いた脳人間の言葉では説得力がない。しかし一方、現代人の死んだ体に宿る脳人間といった設定は、エイリアン的恐怖を描こうとするでなく、殆どモビルスーツのノリであるのがおもしろい。脳人間の一人は主人公たちの父親に宿っていて、それを知った時とはすなわち父親がもう死んでいることを知らされた時でもあるのだが、この「父の死」への痛みを抱えるよりむしろ、父親の体が脳人間のためのドナーとなることの方に主人公の心が動いている様はそれをよくあらわしている。
 『エディー・リーのおくりもの』(バージニア・フレミング フロイド・クーパー:絵 香咲弥須子:訳 小学館)はダウン症の少年との交流を描いた絵本。夏休み、クリスティはママに「エディー・リーとなかよくね」といわれたけれど、「エディー・リーって、やっぱりちょっと、へんだもん」と思っている。ジムと遊ぶほうが楽しい。というところからスタートする物語は「エディー・リー」のすばらしさを発見していくクリスティとジムを追っていき、さしたる新しい視点はないのだけど、エディー・リーを描く絵が実にいい。その姿、仕草、表情のリアルなこと。『時を飛ぶUFO』の、死体がモビルスーツのように扱われるリアルと、『エディー・リー』の絵のリアルは対極にあると同時に、どちらもが成立しうるのが現在なのかもしれない。
 『第八森の子どもたち』(エルス・ペルフロム 野坂悦子:訳 福音館)は、第二次世界大戦時、ドイツとの国境近くにある町から父親と共に避難し、ある村の農家で暮らすノーチェの日々を描いたオランダの作品。物語は、「未来の地球を守る」ために反戦を訴える仕草を見せるわけでなく、ただただ、ノーチェの日常を丹念に記述していく。乳しぼりを手伝わせてもらえないこと、友達と紙煙草を吸いたくて聖書を破くこと、木登り・・・etc。それでも戦時下ではあり、服に黄色い星を縫い付けられた顔見知りのおじさんが娘と共に連行されていくのを見送り、イギリスにまで届かないV1ロケットが森に落ち、まだ少年のドイツ兵が脱走して来るし、消えてしまったユダヤ人家族の忘れ形見の赤ん坊を育てもする。長閑な木登りとV1ロケットの落下。戦時下を生きる子どもであるノーチェにとって、その幅が子どもとしての日常のリアルなのだ。だからこそ、この物語は、戦争のないリアルな日常を生きている子どもに「戦争」をうまく伝えることができている。
 戦争が終わり、平和が訪れる。ノーチェは村を去り、アムステルダムの学校に通っている。物語の終わりは、こうだ。「ただ、ノーチェは、やり場のない怒りを感じるのです。なぜ、わたしは、あのあたたかい台所からひきはなされ、知らない人ばかりの教室にすわっているのか、と。」
読書人2000/04